作編曲家として小泉今日子、中山美穂、郷ひろみ、光GENJIなどの昭和のトップアイドルから平成のAKB48まで、誰もが知る人気シンガーに楽曲を提供する一方で、自身もアーティスト活動を展開してきた井上ヨシマサ。作家活動40周年を迎えた“ポップスの魔術師”の知られざる「THE CHANGE」に迫った!【第1回/全2回】

井上ヨシマサ 撮影/河村正和

 作曲家としてのデビューは、小泉今日子さんに提供した『Someday』です。1985年、19歳のときでした。以来41年、音楽活動を続けてこられたのは、力を貸してくださる方との出会いに恵まれたからだと感謝しています。

 今年還暦を迎える僕は東京の下町生まれ。4人兄弟の三男で、6歳からピアノを始め、クラシックの基礎を学びました。小学3年のとき、洋酒のCMでスキャットを歌うサミー・デイヴィス・ジュニアに衝撃を受けてからはジャズに傾倒し、やがて小学生だけのビッグバンドにピアニストとして加入します。猛練習に励み、全国吹奏楽コンクールで優勝することができたのですが、努力が報われたことが嬉しくて、その頃から音楽を一生の仕事にしたいと考えるようになりました。

 テクノポップユニット『コスミック・インベンション』に参加したのは中学生のときでした。小学生バンドのメンバーに電子楽器メーカー創業者の娘さんがいて、その縁から声をかけられたのです。ユニットは『YMO』の日本武道館公演の前座を経て81年にデビューしましたが、アイドル的な展開は僕が望む方向性ではなかったので、その頃から曲づくりをするようになりました。人から提供された曲ではなく、自分の音楽で勝負したかったんですね。

 コスミックのプロデューサーは『ブルー・コメッツ』のキーボーディストだった小田啓義さんで、作曲のことをいろいろと教えてくださいました。ユニットは途中で脱退してしまいましたけれども、人が書いた曲を歌う経験をしたことは、のちの『AKB48』プロジェクトなどで生かされたと考えています。歌い手の気持ちが分かるようになりましたから。

 その後、シンガーソングライターを目指した僕は、アルバイトをしながら曲づくりに没頭しますが、コスミックのディレクターだった田村充義さん(小泉今日子、広瀬香美、ポルノグラフィティなど、多くの人気アーティストを手がける音楽プロデューサー)のもとへ通い、作った曲へのアドバイスを受けるうちに『Someday』が採用されたのです。