国際大会に出てから目指すものが変わった
当時、僕たちの父親は群馬県の草津で金物屋を営んでましたが、隣の長野や新潟の高校生合宿があると「うちの双子も参加させてくれないかな」と週末練習に押し込んでいくんです。早朝に4WDに乗せられて自宅を出て、雪の峠をいくつも超えて、白馬に到着。日曜の夕方にまた迎えに来てくれる、というような生活をしてくれました。
そのおかげもあって、僕らはジュニア世界選手権という、欧州の世界大会に選抜されるようになったんです。草津の山の中の高校生が世界の大会へ。毎日が刺激的でした。
欧州のレベルは高く、高校生のトップは、すでにシニアの大会でも上位に入ります。後半クロカンでは、スタート直後から、「もうラストスパート?」というくらいのスピードでそのままブッチ切り。僕などはほとんど最下位で、追いつく自信も喪失するほどでした。
その頃までは、健司と僕の実力差はほとんどなかったのですが、国際大会に出てから、変化が現れます。そこで目指すものが変わったんです。
僕は「こいつらと一緒に戦えるわけがないから、国内で社会人実業団チームに入れればいいや」と思っていましたが、健司は大学に行ってさらに力をつけ、オリンピックに出たい、と思うようになったんです。
2人で早稲田大学に進学した後は、健司は練習一辺倒でしたが、僕はトレーニングよりも、適当に女の子と遊んで、車で仲間と遊びに行くような、チャランポランな生活のほうが楽しかったんです。
そして、僕らが大学4年の冬、1992年に、アルベールビル五輪がありました。
兄が、団体で金メダルを獲ったんです。当時、表彰台で金メダリストがニコニコするのは珍しく、また健司は顔にペインティングしてたものですから、「新人類」とか言われ、一躍、スポーツヒーローになりました。
アルベールビル五輪の後には「健司さん、写真お願いします」と街中で兄と間違って何度も声をかけられ、行き場のない気持ちを、母親にぶつけたこともあったという。次晴さんに大きな「 CHANGE」が訪れたのはこの頃だった。
(つづく)
荻原次晴(おぎわら つぎはる)
1969年12月20日、群馬県草津町生まれ。双子の兄は、現・長野市長の荻原健司。95年カナダ世界選手権団体で優勝し金メダルを獲得。98年長野冬季五輪では、団体5位、個人6位入賞、引退後は、スポーツキャスター。『次晴登山部』では、日本百名山へツアー登山を主催している。4児の父親。
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