現・長野市長の荻原健司を双子の兄に持つ。スポーツキャスターで元スキーノルディック複合選手の荻原次晴。双子の兄を常に意識してきた彼の「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全2回】

荻原次晴 撮影/河村正和

 僕らが大学4年の冬、1992年のアルベールビル五輪で兄が、団体で金メダルを獲って、一躍、スポーツヒーローになりました。

 一方の僕は、その頃、ただのなんでもない大学生でしたが、双子で顔が同じなので、よく街中で兄と間違って声をかけられました。

「健司さん、写真お願いします」と言われて、「僕は荻原健司ではありません」と断ると、妙な空気になります。でも本当に健司じゃないんだから、そう答えるしかないじゃないですか。サインを断ると、「調子にのりやがって」なんて言われるし、どこに行っても、嫌な思いばっかりして。

 八つ当たりといいますか、そういう行き場のない気持ちを、母親にぶつけたこともあります。「なんで双子に産んだんだ」って。お袋は泣いて謝りました。でもそうやって「悪かった」っていう姿を見るのも嫌で、それで、この状況を打破するのは、世界選手権の金メダルしかない。いや、それではまだ印象が薄いから、やっぱりオリンピックに出るしかない。僕もちょっと本気にならないと、と一念発起したんです。

 アルベールビルの次、94年のリレハンメルには間に合わなかったですが、98年の長野五輪を狙って、とにかく練習しました。ここで努力しないと一生後悔する、って。

 そのおかげで、25歳のときの95年シーズンは、調子がよかったです。W杯転戦では、チェコ、ノルウェーの大会で、兄の健司に次いで、1・2フィニッシュしましたしね。

 特に思い出深いのは、チェコのリベレツ大会です。

 後半のクロスカントリーで、ずっと僕がトップでレースを引っ張っていました。後ろには兄の健司。「もしかして、健司に勝って初優勝できるのかな」と、途中でちょっと甘い夢を見ましたが、ラストで兄貴がスパートしてきて、見事にマクられました。世間はそんな甘くない。と同時に、アルベールビル、リレハンメルで金メダルを獲得し、世界で常に勝っている健司は、勝負に厳しい、温情がない、と思いましたね(笑)。