1997年にレイザーラモンHGとともにお笑いコンビ「レイザーラモン」を結成したレイザーラモンRG。『R-1グランプリ』では、11年、12年で準決勝に進出、14年には初の決勝進出を果たして準優勝。17年にも決勝に進出するなど精力的に活動し、近年ではものまねのレパートリーを広げている。そんなレイザーラモンRGの“THE CHANGE”に迫る。【第2回/全2回】

レイザーラモンRG 撮影/山田智絵

 その頃、大阪では、『心斎橋2丁目劇場』でやっているお笑いが人気で。オーディションの話を聞きつけました。

 そのときに相方として声がけしたのが当時、他大学のプロレス研究会にいたHG。オーディションではプロレス的な、変なノリを披露。お笑い芸人を目指していたわけではなかったのですが、意外なことに一発で合格。『レイザーラモン』が誕生しました。1997年のことです。

 長い間、僕たちは売れませんでしたがある日、御存知の通り、突然、HGが全国的大ブレイクを果たします。単純にうれしかったですね。「どうだ! 俺の相方はすごいだろう」という気持ちでした。

 ただ世間や周囲の反応は逆でした。僕は、世間から「かわいそうな相方」という扱いを受けたんです。

 そんなとき、周囲のバッファロー吾郎さんやケンドーコバヤシさん、小籔千豊さんらが「何でもいいから前へ出ろ。こういうときは前に出ないほうが悪だ」とケツを叩いてくれたんです。

 僕はRGとして食らいついていきました。しかしゴリゴリにスベり、お客様にも嫌われてしまう……。

 地元や出身大学のネット掲示板では「恥」と言われ、まさに四面楚歌。そんな状況でも踏ん張れたのは、小学4年生のときに、誰一人味方がいないクラスに放り込まれた経験で、メンタルが鍛えられていたからかもしれません。

 とにかく僕は前へ出続けました。所属していたプロレス団体『ハッスル』でも、“やられ役”としてどんどん前へ出続けたのです。