1995年に『夢見る少女じゃいられない』で鮮烈なデビューを果たし、ボーカリストとして走り続けている相川七瀬。その一方で、3人の子どもたちを育てながら、45歳で國學院大學神道文化学部に入学。現在は同大学院生として民俗学の研究にいそしんでいる。パワフルに人生を突っ走る、相川七瀬のTHE CHANGEとは──。【第2回/全4回】
2011年に長崎県の対馬市で出会った“赤米”は、神事に欠かせない古代米。祖父が地元の神社の熱心な氏子であったことから、子どものころから神社には親しみを感じていたというが、“赤米”を通して祭事に目が向くようになり、「もっと学びたい」と、45歳で國學院大學の神道文学科の学生となる。
「これも、いま思うと“よくあんなことができたなぁ”のひとつですね。私は高校を中退して歌の世界に入ったので、大学を受験するためにはまず、高卒認定を取る必要がありました」
ちょうどそのころ、海外留学していた長男が帰国して、日本の高卒認定を受けることになり、母と息子は机を並べて勉強したという。そして、大学受験を突破。息子と同じ年齢の同級生たちと共に、4年間の大学生生活を送った。
「同級生たちには、慣れない学生生活でずいぶんお世話になりました。一方で私も、彼らの就活の相談に乗ったりして。いまはみんな卒業して就職し、“こんなはずじゃなかった……”とかたまに弱音を吐いたりしてるので、“それが社会だ!頑張れー!!”って、社会人の先輩として偉そうに諭したり(笑)。いい関係です」
そんな母親の姿を、お子さんたちはどう感じているのだろうか?
「私は、みんなが10代から20代にかけて経験するであろうことをしないまま大人になってしまったから、それをいま、ひとつずつ取り戻しているんだと思うんですね。そんな私に対して、子どもたちが本音のところでどう感じているのはわかりません。
でも、いつか3人が家庭や自分の子どもを持ったときに、何かのヒントになればいいな、と思っています。“そうか、うちの母親は自分くらいの年齢のときに大学に行っていたな”と気づいて、そのときに感じることを彼らの人生に生かしてくれるとしたら、それでいいかな、と」