よくも悪くも“日本のバンド”として幸せを味わえる時代だった

 90年代のバンドシーンは、モンスター級の記録がいくつも生まれるなど日本中がその熱気で包まれていた。吉井さん自身もそうしたエネルギーを肌で感じていた。

「90年代は、いま思えば我々のような日本のミュージシャンにとって、“成功の手触り”がちゃんとある時代でしたね。いい曲を出せば100万枚売れた時代なわけだから。いまは“YouTube再生回数”や“ストリーミング数”だったりで、ちょっとバーチャルなイメージですよね。全部スマホの中で起きているような感じです」

吉井和哉 撮影/横山マサト ヘアメイク/Cana Imai スタイリスト/Shohei Kashima(W)

 さらに取材スタッフが「98年の『PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99』に参戦した」ことを告げると、驚異的な数字が返ってきた。

「1年で113本やったんです。113本のうち80本くらいはホールで、残りはアリーナで。週3回やっていたんですよ」

ーー週3回!?

「そんなこと、いまはどんなに売れているバンドでもできないと思う。それが可能だった。要は、いまはホテルをキープすることも難しいじゃないですか。そういう意味では日本がいまよりも“日本”だったし、よくも悪くも“日本のバンド”として幸せを味わえる時代だったんですよね」

ーー真っ只中にいた吉井さんは、幸せの実感をどんなふうに感じていましたか?

「いや、忙しすぎて途中から辛くなってきちゃって、笑い飛ばせなかった部分がありました。ひとつ悩んじゃうと、そこにズブズブとハマっちゃうというか、気にしなくていいことを気にしたりとか」

ーーいまはいかがですか?

「流せるようになったんですよ。怒ってもすぐに忘れるしね」