「大舞台に弱いタイプだったけど」アテネ五輪を経験することで「監督ができるぐらいの怖いもの知らずに」
──代行をする際は、何か言葉をかけていただいたんですか?
「いやいや、言葉を交わす機会はまったくなかった。オリンピックが終わって成田に帰って来たら、ホテルで長嶋さんが車椅子で待っていてくれて、“あぁ、ご苦労さん”って言ってもらうまでは、一度も言葉は交わしていない。だから俺の中でも、あの監督代行はものすごいプレッシャーだった」
──ただ、後にベイスターズの監督を務めることを考えると、良い経験だったとも思えます。
「大きな転機だったね。長嶋さんが命がけで与えてくれたチャンスだから。代行という肩書きだったけれど、強烈なプレッシャーを感じたことで、弱かった中畑清が強くなれたから」
──弱かったんですか?
「俺は意気地なしだもん。大舞台に弱いタイプだったけど、アテネの経験をしたことで、監督ができるぐらいの怖いもの知らずになれたんだよ。これ以上はないっていうぐらいの怖さ、プレッシャーを楽しめたからね。ベイスターズの監督になるとき、長嶋さんからいただいた言葉も、自分のそういう流れを見ていてくれたからなんじゃないかな」
2012年、中畑さんは横浜DeNAベイスターズの初代監督となり、のちに日本一に輝くチームの礎を築いた。このときにも長嶋さんに相談したそうだが、かけられた言葉とは──。
つづく
なかはた・きよし
1954年1月6日、福島県生まれ。駒澤大学を経て、75年に読売ジャイアンツに入団。79年に一軍に定着し、「絶好調男」としてファンから人気を博す。84年のオールスターゲームでは二打席連続のホームランを打ち、一塁手として7年連続のゴールデングラブ賞に輝くなど、中心選手として活躍する。89年に現役を引退。野球解説者として、歯に衣着せぬ語り口で人気となる一方、読売ジャイアンツのコーチ、横浜DeNAベイスターズの初代監督など、指導者としても日本球界に貢献してきた。