1970年『ベイビーブラザーズ』でデビュー後、73年に『フィンガー5』のメインボーカルとして再デビュー。5人きょうだいの4番目、当時から目立ちたがり屋だったという晃のTHE CHANGEとは――。【第1回/全2回】
『フィンガー5』の最初シングル『個人授業』が発売されたのが、1973年8月のこと。それから『恋のダイヤル6700』、 『学園天国』と立て続けにミリオンセラーを出したことで、僕たちの名前は全国に知れわたるようになったんです。
当時、僕は小6の12歳で、何がなんだか分からない。無我夢中でしたね。フィンガー5は5人兄妹で、僕より6歳年上の長男・一夫、その下は2つ違いで次男・光男、三男・正男と続き、僕、1つ下の妹・妙子というのがオリジナルメンバー。
米軍兵士が泣きながらハグを。ギャラよりチップが多かった下積み時代
もともと親父が沖縄で、米兵が立ち入ることを認められた「Aサイン」と呼ばれるバーを営業していたんです。客の多くは米軍の海兵隊だったから、気の荒い、めちゃくちゃなヤツが多くてね。なにせ返還前の、ベトナム戦争の時代ですから。
幼い頃から、彼らと一緒にバンドの演奏や、ジュークボックスから流れるR&B、モータウン系のソウルを聴いて育ったから、そういう音楽が体に沁みこんじゃってるんです。
上の兄貴3人でやってたバンドがコンテストで優勝したこともあって、長男が「本土で音楽をやりたい」と言って上京したのが68年。横田基地に近い東村山に一家で住んで、しばらく米軍キャンプ巡りをしてました。5人でやるようになったのは、その頃からですね。
返還前の沖縄から来た僕らにとって、東京は驚くことばかりでしたよ。人は多い、電車は走ってる、お札が緑じゃない、クルマは左側を走ってる。ちょっとしたカルチャーショックでしたね。
横田基地は空軍なんだけど「明日ベトナムに行く」という兵士が、僕がステージで歌ってるのを見てボロボロ涙を流すわけ。「僕も故郷にお前ぐらいの子どもがいるんだ」って、泣きながらハグしてくるんだよね。
一晩に30分のステージを4回やるんだけど、歌ってるとチップ、おひねりがガンガン飛んでくる。それをかき集めて4つある服のポケットに詰め込みながら、歌って踊ってましたね。ギャラよりチップのほうが多かったですよ。
その後『ベイビーブラザーズ』という名前でレコードデビューしたんだけど売れなくて。「もう沖縄に帰ろうか」と言ってるときに声をかけてくれた人がいて、レコード会社を移籍。そこから『フィンガー5』と名乗るようになった。マイケル・ジャクソンがいた『ジャクソン5』が好きなおふくろが名付け親です。