「お客さんより先に仲間が受け入れてくれた」同期の陣内智則、中川家、ケンコバとの日々
――大阪NSC時代はどうでしたか?
「当時の大阪は、ツッコミがしっかりした正統派漫才が圧倒的正義だったので、竹中さんがやっていたような、ツッコミのないシュールな笑いは見向きもされなくて。すごいギャップを感じたというか、正直、苦しみました。僕らは静岡の方言が強くて、大阪弁なんかしゃべれないから、ライブに出てもスベってばかりで」
――苦しい状況でも、芸人を続けられたのはなぜだったんでしょう?
「お客さんより先に、芸人仲間が受け入れてくれたんです。同期の陣内智則、中川家、ケンコバとかが“お前ら売れる気ないやろ。ウケへんし、変なネタばっかやってんな”ってイジってくれて。それが救いになったし、相方と一緒に難波に住んでいたんですけど、みんなが2丁目劇場の出番終わりに毎日のように遊びに来ていた。そんな生活が楽しくて、本当に幸せだったんです。
でも、いま思えば、幸せだったから、自分たちのネタのダメさに気づかなかったんだろうなって思います。ウケなかったら工夫すればいいんだけど、芸人仲間が笑ってくれるし、このままでいいやって思ってしまった。
劇場の支配人に説教されて、言われた通りにネタを変えたりもしたけど、自分たちが納得してないんだからウケるわけがない。それを言い訳にして、よけいに危機感がなくなって。東京に出るまでの10年間はなんにも進歩しなかったな」
――やはり、自分がやりたい芸を貫くのが一番ですか?
「自分が好きな芸をしたほうがやっぱり体重は乗ります。でも、それってお客さんに伝える方法をちゃんと考えないと、結局自己満足になっちゃう。どうやったら伝わるかをしっかり考えないとダメです。それが、大阪時代を思い返しての教訓ですね。
たとえば僕も、今だったらベタベタで説明的なものをやってから、ぶっとんだボケをするわけです。お客さんに伝わるように。
フリもなく、いきなり変なボケをしてもウケるわけない。そういうことを、吉本時代はわかってなかったんです。やりたいことをただやっているだけだから、フリもなくただクレイジーなことを言っているだけ。だからウケるわけがなくて、そういうのをずっとわからないまま10年過ごしちゃった」