まったく違ったフォームの考え方
「アメリカでは、自分が正しいと思ってやってきたことが、必ずしもそうではないということに気づかせてもらいました。たとえばピッチングフォームだと、日本はすごくきれいなフォームの選手が多くて、極端にへたな人はいない。同時に極端にずば抜けている人も少ないんです。
アメリカはいろんなフォーム、ボールを投げる選手がたくさんいて、すごく個性がある。もちろん全部がすごいわけじゃなくて、こんな感じか、という選手もいるんですけど。そういう中で、どう自分の個性を磨けるかが大事になる。文化の違いを感じましたね。今でこそ、日本の選手もすごく個性はあると思いますけど」
現在に比べると当時の日本は、野球の技術に関する情報が少なかった。良くも悪くもガラパゴス化していたかもしれない。
「それまでに出会ったコーチは、みんなとてもいいコーチで出会いに感謝しているんですけど、僕に合ったピッチングとか野球観という点で言うと、やっぱり狭い世界だったかもしれません。僕自身がそこから発想を広げられなかったんです。
でも、アメリカに行ったことで、その発想が広がった。いろいろな人の話を聞いたり、投げ方や打ち方やいろいろなものを見たときに、自分ではこれはダメだと思っていたものが意外とアリだったり。自分の中にあったルール、固定観念がなくなっていったんですよ。結果が出なくてつらい時間が続いていましたが、振り返ってみれば、とても貴重な時間でしたね」
貴重な経験を得たメジャーでの3年間を経て、五十嵐さんは日本に戻り、福岡ソフトバンクホークスに入団する。そこには今までとは違う五十嵐さんがいた。
このままでは野球人生を終わらせられない
「アメリカで納得いく成績は残せなかったんですが、自分の中で変化は感じられたんです。こんなボールが投げられるようになった、マウンドでこういう対応ができるようになった、この経験をいかさないともったいないと思ったんです。このまま自分の野球人生を終わらせてはいけないというプレッシャーをかけながら、ここまでできたら日本でもいけるという自信もあったんで、ホークスに入団したんです」
しかし、最初からうまくいったわけではない。日本の野球がアメリカで通用しなかったように、アメリカのやり方がそのまま日本で通じたわけではなかったのだ。
「アメリカで小さく変化するボールを投げられるようになったんですけど、日本のバッターって小さい変化球を当てるのがうまいんですよ。じゃあ、大きい変化球が必要だねと、新しいボールを投げたり、日本のバッターが嫌がる配球やフォームにしたり、いろいろ変える柔軟性を身につけていたので、ちゃんと対応できましたね」
バッターとの勝負も変わったという。
「ピッチャーでいうと、バッターと対戦する前にフォームやボールを調整して、マイナス要素を極力、減らしておく、自分との勝負があるんです。アメリカにいるときは自分との勝負ばかりだったような気がします。そうなると、抑えるのはなかなか難しい。
でも日本に帰ってからは、試合中にちょっとおかしいなと思うことがあっても、ちゃんと微調整してバッターと勝負できることが増えました。こういうところはアメリカでの経験がいきたのかなと思いますね」
個性をいかす、発想を広げる。メジャーでの経験で、野球人として大きく成長した五十嵐さん。そのことは、現在の解説者としての活躍と、無関係ではないだろう。アメリカに行ったことは、五十嵐さんの人生を左右する大きな「CHANGE」だったのだ。
■五十嵐亮太(いがらし りょうた)
1979年北海道生まれ。97年に敬愛学園高校からドラフト2位で東京ヤクルトスワローズに入団。2年目から一軍に定着し、リリーフ投手として活躍。04年には当時の日本人最速タイ記録となる、球速158キロを記録。最優秀救援投手に選ばれる。09年に海外FA権を行使し、MLBニューヨーク・メッツに入団。12年シーズンまでMLBでプレーし、13年に福岡ソフトバンクホークスに移籍。19年に古巣のヤクルトに戻り、20年に引退。現在は野球解説者として活躍している。