1972年にバンド『海援隊』でデビューし、『母に捧げるバラード』や『贈る言葉』などのヒット曲を生み出す一方で、俳優としても映画『幸福の黄色いハンカチ』やドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)など、数多くの代表作を持つ武田鉄矢。そんな彼の人生は、さまざまな「縁」によって大きく動いていったという。武田鉄矢を変えた「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全2回】

武田鉄矢 撮影/田中智久

 映画『幸福の黄色いハンカチ』で忘れられないのは、ラストカットの、高倉健さんが黄色いハンカチに向かって歩き出すシーンです。

「よーい」の声かけでカチンコが上がると、健さんは僕と桃井かおりに「長いロケーション、お疲れ様でした。体に気をつけて、元気で再会しましょう」と握手をしてくださったんです。山田洋次監督は、それを見届けてから、とてもとても優しい声で「……はいっ」と、撮影を始めました。

 そのときのことは、今思い出しても涙が出ます。

 映画というフィクションを作っていても、最後はここまで真剣に、人と人は別れを惜しむんだということを学びました。私は、のちにテレビドラマで教師役をしましたが、半年間、一緒に苦労した15歳の少年少女たちと別れるとき、泣きながらどんどんアドリブが長くなっちゃったんです。でも、それは、私の心の中に健さんと、山田監督から受け取ったものが、深く根を張っていたからなんですね。

 そうやって撮った『幸福の黄色いハンカチ』は、山田監督自らアメリカに行って、原案のピート・ハミル氏に観てもらったそうです。

 当時のみやげ話に、ハミル氏の奥様は日本人だったとお聞きしていたんですが、なんと2023年に、インタビューの冒頭でも話しましたが(第1回参照)、その奥様から「今、日本に来ているのだけれど、ピートがとても気に入っていたあなたと会いたい」と、人を介して連絡をいただいたんです。“ぜひ!”と思ったんですが、ちょうどスケジュールが立て込んでいて、非常に残念ですが……と丁重にお断りしました。

 そうしたら、今度は別の方から、同じ件で電話がかかってきました。

「新田ですが、あなたに会いたいと言っている女性は、ピート氏の奥様というだけではなく、音楽雑誌の記者で、ニューヨークに行く前に海援隊のインタビューもしているそうですよ」