「アンチ吉本」「アンチ花月」を掲げた2丁目劇場への誇り 

 なんばグランド花月やうめだ花月には憧れもありましたが、プロデューサーの大﨑洋さんが「アンチ吉本」「アンチ花月」を掲げて2丁目劇場を立ち上げたので、僕らは「自分たちの世代の舞台」という誇りを持っていました。師匠がいない芸人たちの集まりでしたから、「自分たちで作らなきゃいけない」という意識は強かったと思います。だから、「花月」か「2丁目劇場」かという選択はありませんでした。

 僕は花月に出ている師匠方と軋轢はありませんでしたが、NSCの1期生は師匠方に「礼儀を知らん」と小言を言われることもあったそうです。1期生の先輩方が苦労して開拓してくれたおかげで、僕らは過ごしやすい環境でいられたのかなと思います。

 2丁目劇場に出ている芸人が花月の舞台に立つこともありましたが、僕はコンビ結成が遅かったのもあって声がかからなかったんです。数年後、吉本新喜劇に出ることになって花月の舞台に立ったときは「歴史」を感じました。「芸人の世界に来たんやな」と、改めて感慨に浸ったことを覚えてます。

 ランキング制が導入されるなど、現在の劇場は熾烈な競争が行なわれているイメージがあります。僕らの頃は「他の芸人よりウケたい」という気持ちはあっても、そこまで生存競争は激しくなくて。そもそも劇場に秩序がなかったというか、若手中心の劇場が作られたばかりなので、「道筋」がハッキリしていなかったんです。

 当時は、東京進出なんて想像もできなくて、頭の中にあるのは「大阪で売れること」でした。松竹芸能さんをはじめとした他事務所を意識することもなく、どうやって吉本の中で売れるか。僕は劇場も好きだけど、テレビに出たい気持ちが強かったので、当時は大阪の番組で活躍することを見据えていました。

 2丁目劇場は4年くらいで卒業しましたが、劇場は芸人にとって足腰を鍛えることができる大切な場所だと思ってます。全国各地どこに行っても板の上に立てばお客さんを笑わせることができるようになるには、10年、20年と長い時間が必要で、テレビにばかり出ているとそうはいきません。地方営業に行くと、劇場に立ち続けている芸人の強さを感じます。その場にいるお客さんの心を掴むテクニックに長けているんです。

 コロナ禍以降は配信が一般的になって劇場のギャラだけで食うことができる若手が増えたと聞いています。時代が違いすぎて想像することは難しいけど、いまのようにさまざまな環境が整っていたら、僕も逆に舞台に力を入れていたかもしれません。

取材・文/大貫真之介 撮影/川しまゆうこ

板尾創路(いたお いつじ)。1963年7月18日生まれ、大阪府出身。NSC大阪校4期生。1986年にほんこんと蔵野・板尾(現130R)結成。芸人としてはもちろん、俳優・映画監督としても幅広く活躍している。