気がつけばいつの間にか訪れていた人生の分岐点。「あのときああしておけば」「もしも過去に戻れたら」――? かつての分かれ道を振り返り、板尾創路がいま思うこと。(第6回)

板尾創路 撮影/川しまゆうこ

『4時ですよ~だ』か?「東京」か?

 1987年4月、ダウンタウンさんがMCの『4時ですよ~だ』(毎日放送)が始まりました。2丁目劇場からの中継で夕方4時からの生放送です。今田(耕司)くんと東野(幸治)くんは最初から『4時ですよ~だ』に出ていたけど、僕とほんこんさんはコンビ結成が遅かったこともあって、レギュラーになれませんでした。130Rは17時から帯で放送されていた『素敵!KEI-SHU5』(関西テレビ)のレギュラーになります。

 若者の間で人気になった『4時ですよ~だ』を羨ましく感じながら、与えられた役割をこなして。ようやく合流することができました。『4時ですよ~だ』にどんなコーナーがあったのか、ほとんど記憶に残っていないけど、生放送で「大喜利」ができたことは楽しかったです。

 一般的に、昔は「大喜利」といえば『笑点』(日本テレビ系)のイメージが強かったと思います。落語家の遊びみたいな感じでしょうか。関西の落語家も「大喜利」をやっていたんですけど、関東に比べて自由度が高いというか、言ってしまえば品はよくなかった。でも、そのハチャメチャなところが面白かったんです。

 当時、(笑福亭)鶴光師匠をはじめ、タレント性が高い方たちが多かったので、関西の落語家の「大喜利」をよく観ていた記憶があります。2丁目劇場でやっていた「大喜利」のコーナーは、関西の落語家の「大喜利」のパロディだったはず。

 現在放送されている『IPPONグランプリ』(フジテレビ系)は、お題に対して「センスのいい回答」を出すというストイックな「大喜利」だと思います。だけど、僕らが関西でやっていた「大喜利」は団体芸でした。最初に回答する人がお手本というか、基本的な考え方を提示して。そこから徐々に崩したり、被せたり、違う角度の回答を出していく。回答者が全員面白くても、逆に成立しない。僕自身、チームの1人として参加している感覚でした。「正解」はないけど、「これ以上はない」という回答が出るまで煮詰めていきました。