お客さんは減ったけれど人気者のプライドはそのまま
仕切る人の采配が重要なんです。ダウンタウンの浜田さんが、僕たちの回答を見て「最初はコイツで、温まったらコイツ」とコントロールしていたから、2丁目劇場の「大喜利」は面白かったんだと思います。
大阪で『4時ですよ~だ』は社会現象になって、僕らは嵐のような数年間を過ごしました。ただ、ダウンタウンさんが東京に行くことが増えると凪になります。
ダウンタウンさんが東京に拠点を移すと聞いたときは、「僕らも連れていってもらえるんじゃないか」と微かな希望を抱きました。だけど、その希望は叶うことなく、僕らは関西に残ります。お客さんは減ったけど、人気者だったプライドはそのまま。歯車が噛み合わなくなりました。
会社から「吉本新喜劇に出なさい」と言われて、僕らは嫌々ながら出ることにしたんです。東野くんなんて芸人をやめようとしていました。僕自身も悔しかったし、「これからどうなるんやろう」と思ってました。
「東京に出たい」という想いが湧いてきたタイミングで、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)の特番が決まって。今田くんと東野くんの名前はあったけど、僕とほんこんさんは呼ばれませんでした。僕はいつも出遅れてしまうんです。松本さんから見て、130Rは課題がクリアできていなかったんでしょう。
『ごっつええ感じ』がレギュラー番組になると、130Rも呼んでもらいました。一方で、レギュラーが始まってしばらく東野くんは呼ばれてなくて。浜田さんは「東野は協調性がないから」と言ってましたけど(笑)、総合的な判断だったと思います。
僕にとって『ごっつええ感じ』は蜘蛛の糸のようなもので、「このチャンスを活かそう」と東京に向かいました。ただ、大阪時代に「苦労した」という感覚はないんです。住むところがあって、飯も食えてました。好きなことをやって、普通に生活できていたんです。
そもそも大阪で食えてない芸人を見たことがありません。大阪の街では笑いを司る人がリスペクトされるから、「吉本で芸人をやってます」と言うとチヤホヤされて。飲食店に行くと他のテーブルの客がお金を払ってくれる。不動産屋に行くと、ミュージシャンは借りる部屋がなくても、芸人はすぐに部屋が見つかる。街ぐるみで応援してくれるんです。
東京に来て、食えない芸人の多さに「これが普通なんだ」と気づきました。みんな消費者金融のカードを持っていて、借金を抱えていたんです。大阪では、貯金がない芸人はいても、借金している芸人はいなかった。大阪時代は「ツラい」より「楽しい」が勝っていたんです。
板尾創路(いたお いつじ)。1963年7月18日生まれ、大阪府出身。NSC大阪校4期生。1986年にほんこんと蔵野・板尾(現130R)結成。芸人としてはもちろん、俳優・映画監督としても幅広く活躍している。