与えられた設定の中でどう面白くできるか

 吉本新喜劇できっちりした台本のあるコントもやってきたけど、『ごっつええ感じ』以降は、自分の中でこの作り方がスタンダードになりました観ているスタッフも、演じている芸人も何が起きるかわからないことが前提だから、『ごっつええ感じ』の出演者はみんな対応力が磨かれたと思います。「もう1回」がなかったので、それぞれが空気を読みながら高い集中力と責任感で演じていました。

 ダウンタウンさんはすでに知名度が高かったけど、僕らはまだ全国的には知られていなかったので、まずはキャラクターを浸透させなきゃいけない。作家たちは僕らのキャラが活きるようなコントを書いてくれました。

 番組開始当初、僕は二の線の役を与えられることが多くて。コントでシュールな面が出るようになったら、作家たちがその方向の役を書いてくるようになったんです。松本さんが「こういう役をやらせたらええねん」と言うこともあったと思います。僕自身が「このキャラで売っていきたい」という気持ちはなくて、「与えられた設定の中でどう面白くできるか」を必死に考えていました。

 うまくいかないときもあったけど、「やれることはやったから……」と、反省することはなかったです。反省会もありませんでした。そんなことをしている時間がなくて、どんどん収録せなあかんかったんです。ほとんどストックがなくて、“撮って出し”のようなスケジュールでした。

 当時、『ごっつええ感じ』は「子どもに見せたくない番組」ランキングの上位に入っていました。『8時だョ!全員集合』(TBS系)、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)だって「子どもに見せたくない番組」だったし、お笑いって誰かを傷つけて成立しているジャンルなので、仕方ないと思います。僕らの耳に直接入ることもあまりありませんでした。

 ただ、スタッフはクレームの対応に追われていたと思います。毎週土日はどこかに謝りに行っていたそうです。『ごっつええ感じ』のスタッフではないけど、ディレクターの吉田正樹さん(『夢で逢えたら』などのディレクターで、現・ワタナベエンターテインメント会長)は「やりたいことをやっていいよ。謝るのは僕の仕事だから」と芸人に言ってました。当時、芸人のやりたいことを否定するスタッフはいなかったんです。限度はありますが、何より面白いものを作ろう、という時代でした。

取材・文/大貫真之介 撮影/川しまゆうこ

板尾創路(いたお いつじ)。1963年7月18日生まれ、大阪府出身。NSC大阪校4期生。1986年にほんこんと蔵野・板尾(現130R)結成。芸人としてはもちろん、俳優・映画監督としても幅広く活躍している。