元関脇・貴闘力。大関・貴ノ花に憧れて、15歳で藤島部屋(当時、のち二子山部屋)に入門。1983年3月場所、初土俵。90年の新入幕は、曙、若花田(のち若乃花)と同時昇進だった。180センチ、150キロの小柄な体ながら、ファイト溢れる相撲で、殊勲賞3回、敢闘賞10回、技能賞1回を受賞、2000年3月場所では、平幕優勝を果たした。02年9月場所で引退後は、年寄・大嶽を襲名し、後進の指導にあたっていたが、10年7月、相撲協会を去る。10年10月にオープンさせた東京・江東区の「焼肉ドラゴ」で、その波乱の人生を語ってもらった。【第2回/全5回】

貴闘力

 2000年春場所千秋楽。

 22歳の「平成の新怪物」雅山と、32歳の貴闘力の優勝を賭けての取組が時間いっぱいとなった。

 立ち合い、一度雅山が引っ掛けた後、2度目に立つと、雅山がパワー全開で貴闘力を土俵際まで追い詰める。

「正直、“ヤバイ!”と思った瞬間、オレはスルッと右に回り込んで、雅山の後ろに付いて、送り倒していた。大阪府立体育会館のものすごい歓声は、今でも耳に焼き付いているほど……」

 ようやくつかんだ初優勝。貴闘力は男泣きに泣いた。表彰式の後の優勝パレードでは、兄弟子の安芸乃島(現・高田川親方)が旗手を務めてくれた。

「この優勝で、優勝賞金1000万円、三賞の賞金とかを合わせて、数千万円。後援者からのご祝儀を足せば、1億円くらいは稼いだかな? だけど、大好きなギャンブルにつぎ込んで、1年で全部なくなっちゃった。ちゃんと貯めていれば、のちのち苦労しなかったのにね(笑)」

 貴闘力は豪快に笑う。

 さて、貴闘力が大相撲の世界に進もうと決意したのは、小学4年生の時だった。父のギャンブル好きが影響して、小学校は何度も転校し、「自分の力で稼ぐ仕事をしたい」と思ったのが理由だった。

 そこで、知人を通じて、当時、現役の大関だった貴ノ花(=のちに師匠となる藤島親方)の東京の自宅に住まわせてもらい、力士になるチャンスを待った。

「当時オレは、小学校を卒業したら力士になれると思っていたんだよね(笑)。実際には中学を卒業してからじゃないとダメなのに、師匠は快く居候を認めてくれたんです。当時、小学生だった若貴兄弟とは、同じ家に住んで、兄弟のように過ごしていたんだけど、まだ中学生だから、相撲の稽古もさせてもらえない。そのうち、“中学校を卒業したら、もう一度(東京に)おいで”ということで、福岡の実家に戻ることになっちゃって……」