1986年に読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ1969)へ入団し、同年に新人王とMVPを獲得するなど大活躍。現役通算で4度のベストイレブンに輝いた日本を代表するFWだった武田修宏。現在もサッカーを愛する彼のTHE CHANGEとは──。【第2回/全2回】

武田修宏 撮影/柳敏彦

 高校を卒業すると、読売クラブに入団しました。当時は高校サッカーで活躍できると、大学に進学するケースが多く、同年代の中山雅史君も井原正巳君も筑波大学に進学しましたね。僕も早稲田大学の推薦という話があったのですが、どうせなら、日本リーグに挑戦して、ダメなら3年くらいで辞めて、他の道を考えようと考えて進路を決めました。そこで、静岡第一テレビに勤めながら、読売クラブでの活動をスタートさせたんです。

 当時の読売クラブは、ラモス瑠偉さんなどブラジル出身のメンバーを中心に本当に強いチームでした。チームメイトは仲間なんだけど、みんなライバルという環境で、ミスをしたら、容赦なく「お前、ふざけんな、バカじゃないのか!」って怒鳴られるような感じでした。当時は入団してきた選手が、翌年にはその半数がクビになるような厳しさで、お金も1試合勝って10万、引き分けで5万、負けたらゼロと決まっていたんです。すでに“プロ”と言っても差し支えないような環境ですよね。

 グラウンドでは厳しいラモスさんたち先輩方でしたが、サッカーを離れると、本当に明るくて優しかったですね。毎日のようにサンバのクラブに行ってましたが、陽気な彼らと出会ったことで、僕の性格も変わったと思います。僕が今みたいに明るい性格になれたのも、読売クラブの先輩たちのおかげですよ。

 肝心のサッカーのほうも好調で、1986ー87シーズンに22試合で11得点を記録して、得点王、MVP、新人王。日本代表にも選ばれました。

 清水東高校でも読売クラブでも、なぜ1年目から活躍できたかを振り返って考えると、グラウンドに入ったら、サッカー選手としては、先輩も後輩も関係ないという考えが大きかったと思いますね。あとは、とにかく数字が大事だと思っていました。いくらボールの扱いが下手でリフティングが全然できなくても、僕のポジションはFWなので、点を獲ってさえいれば使ってもらえるだろうとシンプルに考えていたんです。