高校卒業後、芸能活動を開始。1966年に坂上二郎とコント55号を結成し、その後人気番組を数々生み出す。「視聴率100%男」とよばれた萩本欽一のTHE CHANGEとはーー。【第2回/全2回】

萩本欽一 撮影/角田忠良

 話を戻すと、僕のNG連発はやっぱり「成功の一、二歩手前の神様のいたずら」だったんだ。 コント55号の全盛期は5年くらいだったのかな。僕は、次はアメリカに単身乗り込んで、本場のショービジネスの世界に挑戦しようと思ってた。そのために英会話も習っていたしね。でも、あるプロデューサーが忠告してくれた。

「欽ちゃん、誰かに呼ばれたの? アメリカは世界中から優秀な人を呼ぶところ。呼ばれてないのに行っても苦労するだけだよ」

 ここで方向転換。アメリカ行きは即中止。僕は、そういうところは素直なの。このとき考えたのは自分のテレビ番組を作ることだった。日本にはアメリカの『エド・サリバン・ショー』みたいなコメディアンの名前がついた番組もなかったしね。よし、僕もテレビ番組を作るぞと意気込んだけど、そんなの作ったことがない。コントは書けても、1時間番組の台本なんて書けないし。そこで一歩下がって考えた。僕のために台本を作ってくれる人を育てればいいじゃないかって。こうしてできたのがパジャマ党。放送作家を育て、彼らをアゴで使えたら最高でしょ(笑)。

 この頃、僕はテレビで芸人たちがやってる芸って、わざとらしいなと思ってた。芸で強引に笑わすんじゃなくて、もっと思わず笑っちゃうようなことができないかって。そう考えると、素人が一番なの。