昨年、俳優キャリア50周年を迎えた長塚京三。スタートが、フランス留学中に実現した映画『パリの中国人』の主演だったことも知られる。その姿には、隠し切れない知的オーラが漂う。同時に、ウイスキーのCMフィールドで幅広い魅力を輝かせてきた。そんな長塚さんのTHE CHANGEとはーー。【第1回/全4回】

長塚京三 撮影/三浦龍司

 落ち着いた様子で、取材の椅子に腰かける長塚さん。“人生の転機”の意味合いを含んだサイトのアイコンである砂時計を机の上に置くと、手に取ってひっくり返し、「インタビューも、この短い時間でいいわけですね?」と穏やかな声で冗談を漏らして場を和ませた。

――主演デビューとなった『パリの中国人』から50年を回りましたが、俳優人生のなかで、「このときはピンチだった」という瞬間はありましたか?

「僕はずっとラッキー、ラッキーで生きてきました。ただ、『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』(1997)という篠田正浩監督の映画のロケ中に、ちょっとした乱闘シーンがあって、その時に転んだことがありました。下駄を履いて全力疾走していたときにね。近江八幡でだったかな。膝を打って、“うわ、やっちゃった”と。それでも頭を打たなくてラッキーだったなと思いながら、最寄りの病院に行ったんです。痛いけど、自分はラッキーだから、まあ大丈夫だろうと思いながら」

――大丈夫でした?

「歩くのに少し不自由でも2~3日休めば治るだろうと思っていたのですが、“完全に折れてます。即手術です”と」

――それは大変!

「車いすに乗せられながら、急遽東京に帰りました。“ああ、自分のラッキーもここまでか”と思いながら。そのとき映画を3本抱えていたんです。『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』と『恋と花火と観覧車』の2本はほとんど撮り終わっていたので、なんとか最後までやっちゃおうと。ただ取り掛かるところだった市川準監督の『東京夜曲』はそうもいかない。“ああ、ここまで人に迷惑をかけて。これはピンチだ”となりました」