1979年に『機動戦士ガンダム』で、ロボットアニメの世界にリアリティを取り入れる新しいジャンルを生み出した富野由悠季監督。82歳にして、今なおアニメの最前線で挑み続ける富野監督のクリエイティビティの源はどこにあるのか。東京・杉並のバンダイナムコフィルムワークスの社屋「ホワイトベース」の会議室で富野監督の「THE CHANGE」について聞いた。

富野由悠季 撮影/冨田望 

【インタビュー第3回/全5回】

 

 富野監督は1964年に手塚治虫のアニメ制作会社「虫プロダクション」に入社し、『鉄腕アトム』第96話「ロボット・ヒューチャーの巻」で演出家としてデビューをはたす(新田修介名義)。

「アニメーターをやりながら演出家を志す人間に何人もあったことがあるんだけど、本当にびっくりしたのは、絵がうまくても“絵コンテの切り方”が分からないっていう人のいるということ」

 と、富野監督は語る。

「絵コンテ」とはアニメの場合では作画の前に準備される、いわば設計図だ。登場人物のセリフや動きなど、構成や演出について細かい指示がイラストと文字で書かれたもので、富野監督は制作進行として働くかたわら、誰に言われるでもなくオリジナルの『鉄腕アトム』の絵コンテを描き始め、それが手塚氏の目に止まった。

「それからアニメーターに、“教えてくれない?”って頼まれるから、コンテの切り方を説明するわけ。“シナリオにこう書いてあるでしょ? だったら、こうすればいいんだよ”と。
 初めにロングサイズがあって、ミディアムセットがあって、アップがあって、こっちとこっちで会話があってね……というように教えるんだけど、“むむ、話は分かるんだけど……”っていう反応をされたることに驚いたんです。」

 絵コンテの描き方が自然と身についていたという富野監督だが、このとき初めて「文章から映像化するための絵のベースを作るということが、それほど簡単なことではないんだと知った」のだという。

「文章やシナリオから絵にするためのプランを立てるというのは、実は、現在演出家をやっている人、監督になっている人レベルでないとできないことなんですね」

 1967年に虫プロを退社した富野監督は、フリーの演出家としてスタジオを渡り歩き『アルプスの少女ハイジ』『巨人の星』『あしたのジョー』『母をたずねて三千里』『いなかっぺ大将』など名だたる名作アニメと関わっていく。どこのスタジオでも見かける、「さすらいのコンテマン」として名を馳せるが、そうした素養はどこで身につけたのか。

「実をいうと、簡単なようで簡単ではない。ぼくの場合は中学時代から絵を描いていたんですけど、絵だけを描いてないんです。この一枚の絵はどうなんだと、メカと人物の関係をしょっちゅう考えながら描いていました。それを想像できる人とできない人がいるけど、それは適性があるかないかなのではないかと想像するようになった。

 そのためには、経験しなくちゃいけない。それとリサーチ能力。リサーチ能力というのは、局部的に深く見ていく場合と、広く見ていく場合の2つがある。理想的なことでいえば、この両方を身につけるような学習をしてほしいということです」