1955年、高校3年生でデビューして以来『へび少女』『まことちゃん』『漂流教室』など、数々の名作を残してきた楳図かずおさん。95年発表の『14歳』以来、長く休筆していたが、22年に開催された『楳図かずお大美術展』で、『わたしは真悟』の続編となる『ZOKU-SHINGO』を発表し、大きな反響を呼んだ。実に68年に及ぶ楳図さんの作家人生、その間にはどんな「CHANGE」があったのだろうか。【第3回/全5回】

楳図かずお 撮影/冨田望

 ホラー漫画という新しいジャンルの開拓。そしてかわいらしいだけではない、リアルな人間としての魅力を持った少女の絵柄。苦労の末にこれらを手にした楳図かずおさんは、1960年の後半には、超のつく売れっ子漫画家となっていた。その忙しさは、想像を絶するものだった。

「ちょうど『おろち』(1969~70)を描いていたときは、週刊連載を3本、月刊連載を3本、そのほかにもいろいろと描いていました。今でも信じられませんね。朝の4時まで仕事して8時まで寝て、起きたらまた仕事。明日は死ぬって毎日、思っていました。体が弱っていくのが分かるんです。ごはんを食べても、お茶碗に1杯しか食べられなくて、それが胃にストーンって入るだけ。胃腸がまったく動いていなかったですね。そんな状態で、2日に1本ずつ漫画を仕上げていました」

 そんなときに、さらに過酷な仕事が舞い込んでくる。

「『少年キング』(少年画報社)に連載していた『ねこ目小僧』が、次は4色と2色(カラー)でやってくださいって頼まれたんです。“これはやばい”と思いましたね。今、作業している漫画の次の次の回だから、ストーリーもなにも考えていない。

 アシスタントも7人いたんですが、急きょ助っ人で1人追加で来てもらって、なんとか描きあげたんです。でも次の日に起きたら顔が黄色くなっていて、黄疸ですね。すぐ病院に行って、もう連載はやめるって、仕事を減らしたんですよ。肝臓を壊す一歩手前でした」

 なんとか一命を取りとめ、仕事を減らした楳図さん。そのことで大きな転機を迎えることになる。