2月12日に立ち上げが明らかになった、タレントのデヴィ夫人を代表とした政治団体『12(ワンニャン)平和党』。その選挙対策委員長に就任した藤川晋之助さんは永田町内では“選挙の神様”とも呼ばれていたが、3月11日に逝去された(享年71)。哀悼の意を込め、昨年末のインタビューから、“選挙の神様”に語っていただいた人生の「THE CHANGE」をお届けするーー。【第1回/全2回】

藤川晋之助 撮影/イシワタフミアキ (2024年11月20日撮影)

 私が政治の世界に入った原点は、高校生や大学生の頃のこと。1960年代の安保闘争にあります。ベトナム戦争が行われ、資本主義と共産主義の戦いが起きる中で、いったいどちらが正しいのだろうと。社会矛盾に対する怒りを感じていました。

 親は海軍の軍人でしたから愛国心は自分の中で自然と育っていました。同じ日本人なのになぜ、真逆の考えを持つ人がいるのだろう? と、子供心に感じたのです。

 このときに東京に出てきて学生生活を送り始めたので、反戦高協の委員長から、民族派の学生運動をやっていた人まで、イデオロギーを問わず両方に幅広く友達ができて、政治に関心を持つようになったのです。この思想対立に答えは出ないと思い、まずは国会議員の秘書として、価値観を抜きに政治文化にどっぷりつかろうと決意しました。

 しかし、いざ永田町に行くと衝撃を受けました。学生時代は安保や憲法などの抽象的な問題を一生懸命議論していたのに、政治の世界はそんなことは全然関係ない。この地域のあの道路をどうするかとか、そのための予算の取り合いがほとんど。当時は今よりもひどくて、大蔵省や国土庁、建設省の役人を連れて赤坂の料亭や銀座のクラブでどんちゃん騒ぎして予算を取ってくるのが当たり前。政治家にしても外交や防衛は票にならないからと、地域を練り歩き選挙を勝ち抜くのが基本でした。これはとんでもない世界に入ってしまったと感じたものです。

 ところが、それを秘書として続けていると、自分の中に「こんなことばかりやっていて本当に良いのか」という思いがふつふつと湧いてきました。秘書を始めて3年目のことでしょうか。「無名の会」という、官僚や政治家の卵、地方議員などを集めた勉強会を作りました。ちなみに、そのときの仲間が今の岩屋毅外務大臣や原口一博元総務大臣、松原仁元内閣府特命担当大臣になります。当時は無名でしたけれど、将来は有名になろうと言って、勉強会を100回は重ねましたね。