1972年に日本サッカーリーグの藤和不動産サッカー部(現在の湘南ベルマーレ)のオファーを受けて日本にやってきて、引退後は、日本サッカー協会公認の『さわやかサッカー教室』を開きサッカーの普及に尽力したセルジオ越後。彼の「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全2回】

セルジオ越後 撮影/河村正和

 1972年に日本サッカーリーグの藤和不動産サッカー部(現在の湘南ベルマーレ)のオファーを受けて、僕は日本にやってきた。

  もともと父は安定した人生を願って、僕を医者にしたかったみたいだけど、日本に行くことは喜んでいたね。ブラジル移民は、いずれ日本に戻ることが夢だったから。どこかで日本を捨てられなかったんだろうね。

 日本のことは、小さい頃から母親から聞いていたよ。屋根は藁で、車はほとんど走ってないって。だけど、母親が日本にいたのは戦前で、僕が行ったときは、すでに東京五輪が終わって経済成長を遂げているときだったから、聞いていた話とはまったく違っていたよ、もちろん、その後、日本にやってきた母親は、もっと驚いていたね。

 サッカー選手を引退して、78年から始めたのが『さわやかサッカー教室』。全国の小学生にサッカーの楽しさを知ってもらう活動だった。これまで60万人くらいの子供たちが参加してくれた。

 僕のサッカー教室では、子供たちに手取り足取り指導するのではなく、“見る”ことから技術を覚えてもらうよう心がけていたんだ。

 当時、プロ化をしていない日本では、小学生が高い技術を実際に見る機会は、ほぼなかった。テレビだって、週1回、ダイヤモンドサッカーがあるだけ。そこで、まずは僕が動くお手本になって、技術を見せようと考えた。

 僕が実際にプレーを見せると、子供たちは、「教えて」とは言わない。「セルジオさん、もう1回、見せて!」って言ってきたんだ。だから、僕が具体的に何かを教えたわけじゃない。少年たちが、僕のプレーを実際に見て、マネをしながら上達していったという感じだった。