『週刊プレイボーイ』の記者を経て1999年『教習所物語』(TBS系)で脚本家デビューした映画監督の内田英治。ずっと「映画を撮りたい」と思いながらも映像制作会社、雑誌記者と紆余曲折した彼が念願の映画の仕事を始めるまでの「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

内田英治 撮影/河村正和

 子供の頃から、映画とはなじみがあったんです。僕は生まれがブラジルのリオデジャネイロなんですが、家族で日本に帰ってきたら、小学校でガッツリといじめられまして、行き場をなくしたんですね。そこで、逃げ込んだのが近所の映画館です。

 僕にとって映画館は夢の世界でした。このときの思い出が、僕の原体験となっています。今、映画を作っているのは、映画に対しての恩返しと言えるかもしれません。

 父も映画は大好きでした。映画が好きな親って、子供を「東映まんがまつり」とかには連れて行かないんですよ。自分が観たいものに、子供を無理やりに付き合わせるんです。当時、父親とは、アメリカン・ニューシネマや、今村昌平の『楢山節考』を観たのを覚えています。今から考えると、どれも子供向けじゃないですよね。でも、当時の僕には、メチャクチャ面白かったんですよ。子供なりに、自分で映画を解釈していました。

 高校生になると、単館ムービーなどにも手を伸ばしました。当時の単館ムービーは娯楽性と社会性が上手にミックスされたような作品が多かったんです。そして、大人になると、良質なヒューマンドラマにも夢中になりました。まあ、映画なら何でも見てきましたよ。僕は本当に、ただの映画ファンなんです(笑)。

 20歳を過ぎると映像制作会社に入りました。北野映画も好きだったので、ぜひ携わりたいと思っていたのですが、そこで担当できたのは、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』 (日本テレビ系)でした(笑)。待てど暮らせど、映画の現場に行けそうな気配がないんです。そこで結局、1年で辞めることにして、脚本の学校に通うことにします。そんなときに『週刊プレイボーイ』の副編集長の方と出会う機会があって、編集部に誘われました。