『週刊プレイボーイ』の記者を経て1999年『教習所物語』(TBS系)で脚本家デビューした映画監督の内田英治。ずっと「映画を撮りたい」と思いながらも映像制作会社、雑誌記者と紆余曲折した彼が念願の映画の仕事を始めるまでの「THE CHANGE」とはーー。【第2回/全2回】

ひょんなことからスタートすることになった週刊誌記者でしたが、仕事としては、メチャクチャ面白かったんです。ただ、30歳までに映画を撮りたいと心の中で決めていたのに、雑誌の仕事が楽しくて、気づいたらその年齢を過ぎてしまいました。そこで、ただ、とにかく会った人間、すべてに「映画に関わりたい」と伝えるような営業活動はずっと続けていたら、あるときに、「脚本を探している人がいるよ」と、教えてもらうことになったんです。そして、その糸をたどっていくと、テレビ局のプロデューサーと会えることになって、いきなりゴールデンタイムの脚本を書かせてもらえることになりました。このことがきっかけで、映像作品に携わっていくことになります。雑誌記者として、10年目を迎えた頃でした。
映像の仕事を始めた当初は、記者の仕事も続けていたんです。ただ、さすがに忙しくなったので、記者を辞めて、映像の仕事一本でやっていくことを決意します。記者を辞めたので、収入がとても減りました。たぶん、10分の1以下くらいに(笑)。思い切りはいいタイプなんです。収入は減ってしまったけど、とにかく頑張って映像の仕事で稼げばいいやって、すぐに切り替えていましたね。ちなみに、母親からは、僕が40歳になるまで、「いつになったら、ちゃんと就職するの?」と、小言を言われていました。ただ、これって普通のことですよね。「好きなことやりなさい」って言われるほうが、ちょっと気持ち悪いと思っちゃいます。ストップをさせるのも、親の役目だと思うんで。