「大学に入学したらお笑いサークルに入りたい」という明確な意思があった
「最初は趣味としてお笑いサークルに入りましたが、ただ、高校時代から“大学に入学したらお笑いサークルに入りたい”という明確な意思が強くありました。でも、挫折したんです。うまくいかなくて。でも"せっかく上京してお笑いサークルに入ると決めたんだし”というのがあり、4年間やり遂げるという意思は最初からありました。そんなふうに強い意志で何かをやるというのは、それまでの人生の中ではなくて、センセーショナルな決断でした」
ーーどんな経験を挫折と捉えたんでしょう。
「1年生のころからバトルライブに出演するんですよ。そこで全然評価されなくてたくさん負けて。そのうえ、友達や先輩付き合いもあまりうまくいっていなかったんです。だから残酷ではありますよね、結果を出すとだんだん仲間も増えていくんだなという。残酷だけど、そういうものなのかなって、いままさに思います」
ーー実力主義なんですね。
「だからサークルというよりは部活に近いですね。ずっとみんなでバトルをやっているので。そういう熾烈な環境でいろんなことができて、今に繋がっているのかなと思います」

友田さんといえば歌ネタだが、当時は「しゃべくり漫才みたいなものをやっていた」とまったく異なるスタイルだった。そのスタイルが歌ネタにCHANGEしたことが、飛躍のきかっけのひとつとなった。
「当時は歌ネタや替え歌について、“目新しさがない”と思っちゃっていたんです。高校生の頃からどこでやるでもなく漫才の台本を書いていたりしていたんですが、高3のときに修学旅行で替え歌を披露したんです。修学旅行先が北海道だったので、それに合わせて『函館の女』の替え歌を作ったんです。わりとウケはよかった記憶がありますが、いま思い返すと恥ずかしいですね、修学旅行で人前でネタをやるなんて……」
ーー修学旅行って出し物タイムがありますもんね。ほかの同級生もお笑いをやっていたんですか?
「いえ、クイズとかやっている人もいたんですけど、僕がクイズををやってもしょうがないだろうと思って、替え歌をやろうかなと」