2020年2月11日、真打昇進と同時に講談の大名跡である神田伯山を6代目として襲名した神田伯山。二ツ目時代から独演会では新進気鋭の講談師として注目を浴びていた彼の「CHANGE」に迫った。【第1回/全2回】
講談師になるくらいだから、ちいさい頃からちょっと変わった子どもだったんだろうと思われる方がいるかもしれませんが、そんなことはありません。
親父の仕事の関係で、1歳くらいから3年間ほどブラジルで生活をしていたというのが特異と言えなくもありませんが、僕が覚えているのはブラジルではなく、日本に帰ってくるなり玄関の前で母親が、「帰ってきちゃったね」とつぶやき、親父が、「あっという間だったなぁ」と返事をしていた場面です。
暑い夏の日。母親に抱っこされながら、その会話を聞いていたというのが、僕が覚えている最も古い記憶です。そこでプッツリ記憶の録画は止まっていますが、そこだけは明確に覚えています。最初の記憶が、母親の子宮から出てきたところだったという三島由紀夫とは、だいぶ? いや、まるで違います(笑)。
小学生になってからは、若貴に夢中になっていた他の子どもたちのように大相撲中継を見て、加トちゃんケンちゃんのギャグに腹を抱えて笑い、4つ年上の兄貴の影響でプロレス……武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の新日本プロレス闘魂三銃士に熱く胸を焦がし、お使いで頼まれた豆腐を家の前でひっくり返してダメにしちゃう。特別なことなど何ひとつない、そんな、どこにでもいる普通の男の子でした。
古典芸能の入り口に立ったのは高校2年のときです。自分に語りかけてくるラジオを聴くのが好きで、ラジオ文化につかっていたある日の深夜、スピーカーから流れてきた三遊亭圓生師匠の『御神酒徳利』を聴いた瞬間、すっかり落語に魅了されていました。
えっ!? ラジオ? そんな古くさい……と思った方がいるかもしれません。今は配信の時代でしょう? とおっしゃる方もいるでしょう。実際、お金のことだけを言えば、ラジオに比べると、配信のほうが儲かるかもしれません。でも、そういうことじゃないんですよ。ガキの頃から聴いているラジオが僕は好きだし、聴いている側からしゃべる側へというリレーのようにも感じて、そこに関わっていられることに感謝しています。