所属事務所が3回倒産、メンバーチェンジ。それでも音楽活動を続ける
今年でメジャーデビュー35周年を迎え、順風満帆なキャリアに思える筋肉少女帯だが、所属していた事務所が3回潰れている。さらには度重なるメンバーの脱退。大槻さんはどのように対処してきたのだろうか。
「そうなんですよ。3回ですよ! すごくないですか。普通は辞めたくなりますよね。もうね、事務所がつぶれる前の雰囲気ってわかるようになって。
まずは社長がよくわからない儲け話を始める(笑)。2回目に潰れた会社の社長は、有線放送を色んな家に引いて、そこに宗教の教祖の教えを流したら儲かるっていうんです。バンドだって、自分で作ったバンドなのに僕は筋肉少女帯を一度、脱退している。でもどんな仕事でも、いい時期と悪い時期ってつねにあるんですよ」
筋肉少女帯がデビューした90年代に起きたバンドブーム。当時は、かなり賑やかだったという。
「僕は22歳の時に筋肉少女帯でメジャーデビューして、数年後に武道館ライブができた。それがブームだとわかっていたんです。当時は、ツアーを行うと、毎晩宴会をやっていた。それくらい羽振りがよかった時代。あのお金は誰が出していたんだろうな(笑)。
周りにスタッフも大勢いましたね。でも、気づくと段々とスタッフも少なくなっていきました。事務所がつぶれてから、ライブハウスで色々なバンドと対バンするようになったんです」
筋肉少女帯が休止中の期間は、ソロ活動や『特撮』、『電車』というバンドでライブ活動を続けた。
「ライブハウスを中心にコツコツと回っていくスタイルのバンドを見て、すごく勉強になった。いわゆるDIY精神というか。自分のやりたいことを中心に生活していく姿を見ました。
僕は巨大なバンドブームに乗っかっちゃったので、そういうのを経験しなかった。筋肉少女帯を休止していた期間は、貴重な転機になった時期ですね」
長きにわたる音楽活動の中で、最初の”転機”はライブだった。
「僕らがバンド活動を始めると、『宝島』(宝島社)というサブカル雑誌がインディーズと呼ばれるバンドに注目しだした。最初に先輩バンドだった『有頂天』(注:劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチを中心としたバンド)が取り上げられたんです。
それから、筋肉少女帯も載るようになった。そのタイミングで、豊島公会堂(※東京都豊島区にあった多目的ホール。2016年に閉館、跡地にはHareza池袋ができている)で『ナゴム総決起集会』というフェスが開催されたんです。まさにバンドブーム前夜だったんですよね」