あんなに最後まで楽しんでくれて、ありがとう
そうした母の反応を受けて、市毛さんは確信した。「退屈させたら死んじゃう」と。そして最後の最後まで、退屈させない努力を続けた。
「仕事が終わってステイ先の施設に迎えに行くと、施設の縦長のガラス窓から外を見ているんですね。とにかく、母は外を見るのが好きだったんですよね。でも目線の先は、グレーのアスファルトと車、向こう側の家の石垣くらいしか見えなくて。灰色なんです。そんな背中を見た瞬間、“申し訳ない”と思いました」
わずかな隙間から見える灰色の世界でも、幸せを感じていた。そんな母を「一瞬でも、外に連れ出してあげよう」と、毎日の散歩を継続した。
「楽しむことを諦めない……という母の姿を見ていたら、母の最期のときに、強烈に寂しくはならなかったんです。これだけ最後まで楽しいことがあったんだから、いい人生を送ったよね、と思えたんですよね。満足だとは思っていませんが、私ができうるかぎりのことを、なんとかしてあげたつもりだから」
ーー後悔もなかったのでしょうか。
「今のほうが“もうちょっと優しくしてあげればよかった”という気持ちが蘇ってきますが、当時はありませんでした。“私なんか生きていない方がいいんじゃないかしら。あなたに迷惑をかけるから、早く死にたい”と言われていたら、もっとつらかったし後悔もしていたと思います。が、うちはそれが一切なかったんです」
そんな母の最期に、市毛さんの胸中を占めたのは感謝の言葉だった。
「あんなに最後まで楽しんでくれて、ありがとう。そう、思ったんです」
■いちげ・よしえ
静岡県出身。文学座付属演劇研究所、俳優小劇場養成所を経て、１９７１年にドラマ『冬の華』でデビュー。俳優としてドラマ、映画、舞台と幅広く活躍すると同時に、芸能界随一の登山愛好家としての顔も持ち、ＮＰＯ法人日本トレッキング協会理事を務める。２０２４年２月に新刊「７３歳、ひとり楽しむ山歩き」が発売予定。
