研修期間中に体重を10キロ以上増やした

 ちなみに「白鵬」という四股名は、昭和の名横綱、大鵬と柏戸が作った「柏鵬時代」に由来している。

「入門した時、私の体重は60キロ台。これでは、新弟子検査に合格できません(合格基準は75キロ以上)。それで、研修期間中に10キロ以上増やしたのですが、白くて細かった私のニックネームは『もやし』(笑)。それくらい頼りなかったし、出世も見込めそうもないから、“床山(力士の髷を結う仕事)にさせたほうがいいんじゃないか?”という声もあったそうなんです(笑)」

 師匠(宮城野親方=当時)は「稽古はしなくていいから、よく食べて、よく寝るように。白鵬にはこう言い聞かせていました。やはり、力士は体が資本ですからね」と、当時を振り返る。

 幸い、白鵬に食べ物の好き嫌いはなく、チャンコ鍋にもすぐ馴染んだ。成長期と重なり、身長、体重ともに増えていくのと並行して、番付もぐんぐん上昇していった。

 03年九州場所は、幕下9枚目で6勝1敗。通例では、この成績で十両昇進は難しいのだが、翌場所から十両の枚数が増えるなどの幸運が加わって、白鵬は04年初場所、新十両に昇進。運も見方に付けた白鵬は、1年後(05年初場所)、新三役(小結)に昇進。そして、06年夏場所には、待望の新大関に昇進し、初めての優勝を成し遂げる。

「大関で優勝したことで、周囲は一気に綱取りムードになったんです。“父のような強い横綱になりたい”という夢を持っていた私は、すぐにでも横綱になりたかった。けれども、11月の九州場所で左足の親指を骨折して、初めて休場を経験するのです。思えば、相撲の神様が“まだ、横綱になるのは早いよ”とおっしゃっていたのかもしれませんね」

 そして迎えた19年夏場所、全勝優勝を果たした白鵬は、満を持して横綱に昇進する。

 横綱昇進の伝達式の前日、白鵬は尊敬する大鵬さん(大鵬親方=元横綱・大鵬)のもとを訪ねた。横綱としての心構えを聞きたいと思ったからだ。

「“横綱は宿命だから、しっかりやってほしい”。“勝てなければ、引退しかないんだよ”。大横綱の言葉は重かったですね」

 こうして臨んだ横綱伝達式では、
「横綱としての地位を汚さぬように、精神一到を貫き、相撲道に精進いたします」
 と口上を述べた白鵬。

 新横綱として臨んだ7月の名古屋場所が終わり、夏巡業が始まろうとしている時、「事件」は起きた。

 ヒザの治療のために夏巡業を休場するはずだった朝青龍が、モンゴルでサッカーをしていることが判明して、2場所連続出場停止処分となり、白鵬は横綱2場所目から一人横綱として、土俵に上がることになったのだ。