打撲や捻挫は怪我のうちに入らなかった
ーー光GENJIといえば、トレードマークはローラースケートで、アクロバティックなワザを決めて歌い踊るグループでした。
「友達同士で遊びでやったことはあるけど、まさか生業にするとは思わないし、でもその一瞬でいろいろ考えて、”これがダメならきっぱり辞めよう”と思い、“はい! やります”と伝えました」
1987年に結成、チャゲ&飛鳥による楽曲『STAR LIGHT』でデビューする直前、全国でキャンペーンが組まれた。
「レコード会社は、“ファンが何万人と来るだろう”と見越してとてつもなく広い会場を用意してくれたんですけど、実際に来てくれたのは数百人。それで、"ああ、やっぱりダメじゃないか。ラストチャンスもダメだったか”という心境になったんです。でも、そのあとデビュー日に『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に出たんですよね。その週末に大阪でのキャンペーンに行くと、何万人というファンの方が来てくれて。“すげえな、テレビの力!”と思ったことを覚えています」
それからは、お茶の間の想像をはるかに超えるほどの多忙を極めた。
「1日に何本も仕事をして、終わったら夜中から新曲の振り付けを練習したり、コンサートのリハーサルをやっていました。ほんとうに記憶がまったくないほど忙しかった」
ーーしかも振りは、ローラースケートが必須で。フィジカルも重要ですよね。
「そうですね、よくステージから落ちましたね。だから打撲や捻挫は怪我のうちに入らなかったです。骨折をしてもステージに立っていたメンバーもいましたから。代わりがいませんでしたからね」
令和の価値観になぞらえるととんでもなくブラックな環境だが、昭和の熱狂の渦にいた光GENJIは、誰ひとり異を唱えなかった。
「それが当たり前の時代……と言ったらそれまでですが、苦労だと思ってやっていなかったんだと思います。そういう経験があるからこそ、いまこの年になってもタフに動けるんだとも思います」
寝ずに熱中できたのは、「ステージに立つライブがいちばん楽しかったから」。数万人分の歓声は「うれしいし、気持ちがよかった」と率直に回顧する一方で、意外な光景もはっきり見えていた。
「やっぱり7人いれば、ファンの方もそれぞれ推しがいるじゃないですか。だから、推しじゃないメンバーが目の前に来ても、まったく見てもらえないこともあるんですよ、そういうのを目の当たりにするとさみしいですよね」
ーーステージから、そんなことがわかってしまうんですね。
「すべてのファンの方がそうではないですし、そういう方はなかなかいないからこそ、いるとつい目に入ってしまうんです。特に僕たちのステージの作りは、ファンの方々と近い距離まで行ける作りでしたからね」