ルーティンに救いを見出す主人公の変わっていく様を描いた
浜野文乃は出版社の労務部に勤務する会社員。10年間、毎日、同じルーティンを判で押したように続け、真っ平らな精神状態を保持している女性だ。そんな彼女が編集部の平木さんとやむを得ず関わることで、徐々に何かが変わっていき、彼女の人生と心の内が少しずつあらわになっていく。
「私自身も年を重ねるにつれ、くすぶっている何かを感じることがあります。経験が増えてきて、生きているのに死んでいるような感覚が増えていく。ポジティブになれ、外に出ろ、趣味を持て、と世の中があおってくるけど、それは万人にとっていいことなのかとも思う。
彼女がルーティンに強くこだわるのは、そこにこそ救いがあるからなんですよね。そういう乱されない盤石な生き方に私自身も憧れがある。でも一方で、そんな彼女に風が吹き込んでくる瞬間を書いてみたかった。だからといって急に幸せになるとか成功するとかではなく、彼女らしさを保ったまま新しい世界や安寧を手に入れていく。彼女にとってこのままでいるべきなのか、変化した方がいいのか、一緒に考えるような小説にしたかったんです」
地味な主人公ゆえに大切に、丁寧に書きたかったと金原さんはほほ笑む。浜野は非常に内省的な人間で、ある一点を突破口にどんどん掘り下げていくタイプだ。そこは自身とも重なるが、浜野は「静かに闘っている人間」だと言う。
「いつもはそこまで主人公に寄り添うわけではないんです。登場人物の関係性やシチュエーションを優先させることもある。でも今回は、浜野さんというキャラクターありきだったので、昇華していく彼女を切り取りたかった。彼女はルーティンを強固に守っていく闘いを静かに続けている。起きる時間から食べるものから、退社時間に至るまで、すべてがルーティン。でもそれが彼女には必要だった。
必ずしも誰もが表立って人生を闘わなければいけないわけじゃないと思うんです。浜野さんを変えるきっかけになった平木さんは、踊るように生きている。自分のフィールドがどこにあるのか、それを本人がどうとらえているか、自分自身に、人生に従うのか反発するのか、それぞれに合った生き方があるのかもしれません」
ラジオドラマ風ではなく、ナレーターの日笠陽子さんが作品を朗読するという形だ。それでいてわかりやすく、感情移入もしやすい。金原さん自身、聴いてみて「全編通して同じ声なのに、丁寧に声色を使い分けていて、一人ひとりのキャラクターがしっかり把握できてびっくりした」というこの作品、言葉が耳から入って直接、心に響いてくる。文字を目で追うのとは別の感覚で楽しむことができる。
金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
作家。1983年生まれ、東京都出身。2003年『蛇にピアス』(集英社)ですばる文学賞受賞。翌年、同作で芥川賞受賞。’10年、小説『トリップ・トラップ』(KADOKAWA)で織田作之助賞、’12年、『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞など、あまたの文学賞を受賞。’12年から2女を連れてフランスに移住、’18年に帰国。今回、初の試みとしてオーディオファースト作品『ナチュラルボーンチキン』を書き下ろした。
『ナチュラルボーンチキン』
配信日:5月17日(金)
著者:金原ひとみ
ナレーター:日笠陽子
配信URL:https://www.audible.co.jp/pd/B0D33K53SM
あらすじ:仕事と動画とご飯のルーティン生活を送る、45歳一人暮らしの労務課勤務・浜野文乃(はまのあやの)。趣味も友達もなくそれで充足した人生を歩む浜野は、ある日上司の命令で、在宅勤務ばかりで出社しない編集部の平木直理(ひらきなおり)の家へ行くことになるのだったが、その散らかった部屋には、ホストクラブの高額レシートの束と、シャンパングラスに生ハム、そして仕事用のiPadが転がっていて──。 金原ひとみが贈る、中年版「君たちはどう生きるか」。