1955年、高校3年生でデビューして以来『へび少女』『まことちゃん』『漂流教室』など、数々の名作を残してきた楳図かずおさん。95年発表の『14歳』以来、長く休筆していたが、22年に開催された『楳図かずお大美術展』で、『わたしは真悟』の続編となる『ZOKU-SHINGO』を発表し、大きな反響を呼んだ。実に68年に及ぶ楳図さんの作家人生、その間にはどんな「CHANGE」があったのだろうか。【第1回/全5回】
元気な声が遠くのほうから聞こえてきた。当日は雨模様だったが、楳図かずおさんはとてもさわやかに「こんにちはー!」とあいさつをしてくれた。トレードマークの赤白ボーダーのカットソーに帽子、ジーンズというファッションにくわえて、きょうは雨傘もボーダー柄。持ち手にもテープが貼られていてボーダーになっているという徹底ぶりだ。
楳図さんは今年、幅広い漫画界への貢献と、新作『ZOKU-SHINGO』を発表したことに対し、手塚治虫文化賞特別賞を受賞した。1955年のデビューから数えると、漫画家生活は今年で68年。そのスタートは、やはり「漫画を始めた人」手塚治虫さんだった。
「影響が強かったというか大変衝撃を受けたというか、手塚治虫が一番だと子どもの頃は思い込んでました。小学5年生ぐらいのときに『新宝島』を読んだんですが、その頃には手塚治虫のコピーになるのは嫌だなって思い始めていました。
すごく面白くて素晴らしすぎちゃうと、影響を受けてしまう。そうなるのは、自分個人でデビューするときに、あまり良くないなと思っていましたね。そこできっぱり、手塚治虫をやめたんです。これが漫画人生、最初のCHANGEですね」
小学5年生のときに、すでに自身の漫画家としてのスタイルをイメージしていた楳図さん。意識して「手塚断ち」をしたのだが、それには小学生らしいエピソードも絡んでいたようだ。
「新しい描き方を考えていたとき、友達に手塚治虫の漫画を貸したんですよ。それを返してもらおうとしたら、“借りた覚えはない”とか言ってきたんです。小学生なのに、まるで大人みたいな言い方で。それっきり読んでいないから、初期以降の手塚治虫は、全然、知らなかったんですよ」
そして楳図さんは、独自の絵を模索し始めた。