服なら俺が外にいる限り年中無休

「美術館は結局、美術に興味がある人しか来ないじゃないですか。僕は美術館に来うへんような奴にも見てもらいたいし、その辺の浮浪者のおっさんとかにも見てもらいたいんです。服だったら、その人の前に立てばいいだけですかから。絵やオブジェだとわざわざ持っていかなあかんけど。それに、展覧会は期間が決まっているけど、服なら俺が外にいる限り年中無休。喫茶店で寝ていたとしても俺は服を着ているから、寝ている間も服は起きてて見せ続けられる。道を歩いてて、からんできた奴にも見せれる!」

 現在は、生活圏内では「着ていない」が、その理由は「当時の目的とは違うことになってきたから。あ、魚武や、ってなるから」だという。

「そうすると“サインください”“写真撮ってください”って、俺そういう目的で作品着て歩いてたんではないから。だから今では、詩の朗読をするときと、海外へ行ったときだけ着ています。俺は『間違い探しゲーム』でいうところの“間違い”じゃないですか、バグというかね。今でこそ“魚武や!”ってことで、見かけたらサインとか頼まれるけど、昔は赤坂で道を聞こうとしておばちゃん2人に“すみませーん”と声をかけたら、それだけで逃げられたこともありました。まあそりゃ逃げるやろとは思うんだけど。そうやってやり続けて、気がついたら60歳すぎてまだこれ着てる俺ってめっちゃおもろいな! と思うし、やっぱ俺は他人の白い目で見られることによって、ますます俺に磨きがかかってると思てる人間なんで」

――魚武さんにとって年齢って、どんなものですか?「60」を意識しますか?

「俺は自分の誕生日とかもあんまり興味がないから、だんだん年齢もどうでもええから途中からわからなくなってきて、たとえば朗読をしててMCで“俺ももう58やからなー”と言うと、あとで友達に“おまえは59や”と指摘されたり、その逆もあるくらいどうでもいいものです。よくミュージシャンが還暦ライブをやったりしますが、ああいうのも俺はどうでもいい。何周年とかもどうでもいい」

 人生の節目、という概念で語れることが多い60歳という数字は、魚武さんには取るに足らないことだった。

「だから自分の現在地がわからないんです」

 一方で周囲の同世代から、年齢への意識を感じることが多々ある。

「同じ年の人たちと会うと、この年齢だと“普通は、こうならないとあかんのか?”と感じますね。みんな俺よりまるで年上なんですよ、見た目だけじゃなくて佇まいも。いつの間にか、そいつら、自分のことを“私”って言うようになってたりするし」

――たしかに“私”は、大人な振る舞いのひとつですね。

「それが、かっこよく見えたらええけど。俺には、折り合つけたようにしか見えない。まぁ、俺の人生だいたいこんなもん、って感じの折り合いのつけ方してるようにしか見えん。たかだか百年生きるか、生きないかぐらいの人間が、もう若くないとか若いとか、こうあるべきなのが普通みたいな感じが気に入らんし、発想からして、群れているというか、考え方や生き方まで群れてどうすんねん? おまえら、大丈夫か? と思います」