日本人アーティストによるアジア進出の先駆けに

――コロナ禍を経ての開催ですから、喜びも、ひとしおですね!

「大きな会場ですので、実を言うと“皆さんに来ていただけるかしら”という不安もあったんです。
 ところが、先行予約分のチケットが30分で完売したらしくて、すぐに翌日の追加公演が決定しました。びっくりするやら、ありがたいやらで、とにかく〝マンモスうれピー〟です(笑)!」

――さっそくの〝のりピー語〟を、ありがとうございます。アジア各地で絶大な人気を誇る酒井さんですが、その快進撃は、いつから始まったんでしょう。

「1990年代に入った頃だったと思いますが、台湾で酒井法子が人気だという話が、当時の事務所に伝わったことがきっかけでした。
 92年5月に台北市立総合体育場で最初のコンサートを行ったんですが、空港に到着したら、メディアの方がたくさんいらしていて」

――それはすごい。

「それまで実感がなかったので、熱烈な歓迎ぶりに圧倒されました。ライブでも1万人くらいの方が中国語で、私の名前をコールしてくださったんです。
 同じ年の秋に同じ会場でもう一度、開催したんですが、どの場面も目にはっきり焼きついています」

――後に多くの日本人アーティストがアジアに進出しましたが、酒井さんは、その先駆けでした。

「当時の私はまだ21歳。デビューから5年が経過して、アイドルとしては難しい時期に差しかかっていました。これから、どうしていくべきか悩んでいた時期でもあったので、台湾の皆さんから自信をいただいた気がします」

――爆発的な人気を受けて、台湾の連続ドラマにも主演したとか。

「93年に放送された『我愛美人魚』という作品です。日本では同じ年に出演させていただいた『ひとつ屋根の下』(フジテレビ系)で、女優としても知っていただけるようになったので、私にとっては転機と言える時期でしたね。
 何かに秀でたわけでもない私に、海外活動やドラマで新しい道が開けたのは、ラッキーだったとしか言いようがありません」