木崎賢治さんから「言葉にも“リフ”がないとダメだよ」とのアドバイス

 迷いながらも、作詞という新しい世界に飛び込んだ売野さん。駆け出しの作詞家として揉まれた先に、中森明菜に書いた『少女A』が生まれたという。どこか当時を懐かしむように、そのころの思い出を語り出した。

「広告業界と音楽業界では、雰囲気がまるで異なりましたね。音楽業界の人たちって、気がいいというか大らかなんです。とりわけ出来たばかりのエピック・ソニーは優しい人が多くて、“売野くん作詞やってるんだって? 僕がいいプロデューサーを紹介してあげるよ”と、様々な人が様々な人に僕を紹介してくれて、そのおかげで作詞する機会が増えていきました。

 駆け出しですから、書いてもボツになることはありましたし、いろんな方から教えもいただきました。なかでも、音楽プロデューサーの木崎賢治(※崎はたつさき)さんと出会えたことは幸運でしたね。木崎さんは、僕に詞の書き方の基本と要諦を教えてくれた師のような人です。“サビにはギターのリフのように、言葉にもリフがないとダメだよ”とか、“心情と情景が重なるような場所を選んで歌詞を書きなさい”といったように、具体的に作詞の技術を教えてくれました。

 それが後々ちゃんと生きてくるんです。 “じれったい”という言葉のリフレインとかね。『少女A』がヒットするまでに、おそらく50曲くらいは書いたと思います。この曲が世に認められたことは、作詞家としてのまぎれもない“THE CHANGE”ですね」

『少女A』は約40万枚を売り上げる大ヒット。その後、売野さんは作詞家に専念することになり、80年代の日本の音楽を支える存在になる。

(取材・文/キツカワユウコ)

うりの・まさお
 1951年2月22日生、栃木県出身。上智大学を卒業後、広告代理店に入社。コピーライター、ファッション誌の編集長などを務めたのち、1981年にシャネルズ(のちのラッツ&スター)の『星くずのダンス・ホール』で作詞家として活動を開始。翌年、中森明菜の『少女A』の作詞を担当、以来チェッカーズ、河合奈保子らに歌詞を提供、現在に至るまでその歌詞が多くの人に愛されている。