最初に電話したのがストリップ専門の芸能社だった
1963年、家出同然で茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)から上京したのは、16歳のときだった。
「家出同然、じゃなくて、家出ね。普通、捜索願が出ますよね。でもね、出ないんですよねえ。戦後だし、9人兄弟だし、命の値段が安かったんだと思うんですよ。多少は心配しただろうけど、残された者の生活や命のほうが大事だったのかもしれないですよね」
「16歳ですからね、いま考えると恐ろしいですよね」と振り返るそのときこそ、マギー司郎さんのTHE CHANGEがあるという。
「わけがわからないまま家出して東京に出てきて、アルバイトでバーテンをして、昼間は暇だからマジックスクールに通ったんです。それでネタが増えてきたから、電話帳を見て芸能社に電話をかけたんです」
1社目に電話したのが、ストリップ専門の芸能社だった。
「僕が立っていた舞台は、ピンク映画館。ストリップ劇場を経験した人って、意外といるでしょう? 俳優さんも漫才の方でも。でもそういう方たちは、渋谷とか浅草とか、東京の劇場に出ていました。僕の場合は、もういろんなところですよね。温泉地に行くことも多かった。ピンク映画は1週間から10日間の上映期間があって、上映前にストリップショーをやったり、僕たちが出て間をもたせた時代があったんですよ」
11時から深夜3時くらいまで、1日4回、土曜日は6回舞台に出た。夜中のお客は「だいたい寝ている」といい、そこで覚えた技が、起こさないようにやる芸だった。
「お客さんが40人くらい入っていると、“このお客さんは見てくれそうだな”。まだそんなに疲れていないかも“という人がわかるんですよね。疲れ切って寝ている人の前で大きい声を出して、イヤな顔をするのを見たくないじゃない? だから、舞台の中央に立って大声を出してやるんじゃなくて、起きている人の前でちょこちょこっとやっていましたね」