ライオネス飛鳥が見た全女の最後
クラッシュギャルズや極悪同盟で女子プロブームをけん引した全日本女子プロレスは1997年に倒産した。その後も数年間は、団体に残った少人数の選手たちが、継続して興行を続けていたが、2005年には事業を完全に停止し同年4月17日の後楽園ホール大会をもって、37年間の歴史に終止符を打った。
「経営陣は、ビューティーペアのおかげで儲けて豪邸を建て、車や船を買うというような豪勢な暮らしをしていた。その後、厳しい時代が来たときは、全国に興行師と呼ばれる人たちがいたので巡業で試合ができた。そこで私たちクラッシュギャルズが出てきて、また全女の人気が復興した。
会社側も、ビューティーやクラッシュのようなペアを作り出せば売れるだろう、と考えていたと思うんです。プロレスと並行して、バブル期はうまいもうけ話を持ってこられて、財産をすべてなくしてしまった」
──ライオネス飛鳥さん自身は、全女の最後をどのように感じましたか?
「団体を卒業して、またプロレスに復帰していたころに、全女の後輩たちとご飯を食べに行きました。“あなたたちはプロなのだから、試合をしてお金をもらえなかったら、プロではないよ”って伝えたんです。復帰後は、自分はフリーでリングに上がっていた。だからどんなに大きな団体でも、小さな団体でも、ライオネス飛鳥に試合に出てほしかったら一試合いくらですと自分で交渉していました。それで向こうがNOと言うならば、出なければいい。それがプロだから。
でも二度と呼ばれないような試合はしてはいけないと心に決めて、必ずまた呼んでもらえる試合をしなければいけないという覚悟で試合をしていた。だから全女が傾いてからも残っている後輩たちは、ちゃんと試合はしているけれどお金のもらえない試合って、やっぱり気持ちも違ってくるのではないかなって感じました。プロレスは部活動ではないのだからね」
──当時を振り返って、いまの女子プロレスをどのように感じていますか?
「レスラーの枠を越えた活躍ができた女子プロレスラーは、クラッシュ以降、出ていない気がします。でも私の持論として、プロレスを辞めた人間があれこれ言うことではないと思っているのですよ。やっぱりいまのプロレスって、“いま、試合をしている選手が作っていること”なので。
いまはコンプライアンスもうるさいから、流血するような試合も少なくなった。昔の全女みたいな試合って難しいかもしれない。でも、大した危険性がなければ、それ以上の歓喜も起こらないんですよね。危険な技がイコールで、そのまま歓喜につながるわけでもない。やっぱりエキサイティング度はそれだと、良くも悪くも平均値を越えないのですよね」