はじまりは24歳の海外移籍「これまで学んだことを“次の世代”に残したい」

 岡崎がバサラ・マインツの構想をスタートさせたのは、Jリーグ・清水エスパルスの選手時代。ドイツ1部シュトゥットガルトへの海外移籍を控えた24歳のときだった。

「2008年に日本代表に入り、海外での試合に出るようになって、アカデミー(若手選手の育成を目的としたサッカークラブの下部組織、サッカースクール)について、自分なら、どのような組織を作るかを考えるようになったんです。

 それには、エスパルス時代からお世話になっている杉本龍勇さんたち、優れたフィジカルコーチの影響もありました。

 自分がこれまで学んだことなどを“次の世代”に残したいと思い、まずは残すなら神戸だなと考えて、故郷・兵庫県でのアカデミーづくりに着手したんです」

 杉本氏は、バルセロナ五輪で4×100mリレーでアンカーを務め、戦後初の決勝進出を果たして6位入賞、アジア新記録を樹立した実績を持つ元陸上選手。エスパルス時代、岡崎のスピードや体を「改革」してくれた恩人だ。

 杉本氏ら優れたコーチたちから指導されたことや、自身の経験から学んだことなどを、次世代につなぎたい…そうした想いが、24歳の岡崎の心にタネをまいた。やがてタネは芽を出し、岡崎の人生の「転機」となっていった。

バサラ・マインツで日本人、そしてドイツ人選手たちを指導する岡崎監督。撮影/渡辺航滋(Sony α1使用)

 

 構想の実現のため、岡崎は滝川第二高校の同級生である岡亮一氏に声をかけた。「今の仕事をやめて一緒に仕事しないか?」という誘いに応じた岡氏は、一からサッカースクール運営を学び、兵庫県で「マイスターサッカースクール」を設立する。これが現在のFCバサラ兵庫の前身となった。

 その後、ドイツ1部シュトゥットガルトでプレーしていた岡崎は、母校である兵庫・滝川第二高校の先輩を通じて、ドイツに留学している日本人学生たちの現実を知ることになる。

「紹介していただいて、多くの留学生を見てきました。海外で挑戦している日本人はプロだけではなく、アマチュアでもたくさんいることを初めて知りました。そこで僕が提案したのは、ドイツで新しいチームをつくること。僕たちがチームをつくって彼らを直接、指導したほうが、この選手たちを成長させられるんじゃないかと思ったんです。

 でも、心配もありました。選手たちにとって留学は、いいきっかけにはなりますが、お金を払っている分、彼らが甘えているところが見られたんです。このままだと誰かのせいや、何かのせいにして選手生活が終わってしまうんのではないと危惧しました」

 こうして2014年、ドイツ11部リーグにFCバサラ・マインツが誕生した。以来、5年連続で昇格を果たし、現在は6部に位置している。