赤井「東スポの中のエッチな記事が読みたかった」

赤井「朝起きたら東スポがあって、その下に電話番号、当時は携帯はないから、当時の自宅のアパートの電話番号が書いてあって、これ、誰やったかな?と。

佳子「誰? って電話かかってきました。 まったく覚えてないやつでした」

赤井「なんで東スポが欲しかったかいったら、東スポの中のエッチな記事が読みたかった」

佳子「そんなこと知らないから」

赤井「それで電話するようになって。ピアノ先生をやってまして、もうその楽譜やな。いつでも電話きて動けるように、着替えからいつも楽譜からこんなカバン(大きいというジェスチャー)にいつも持って移動しながら、俺からの電話があったらホテルオークラに来てくれた」

佳子「スピードが大事じゃないですか。あまたの女性の中から電話がかかってきて、一番最初にホテルに着いた人が中に入れるわけだから。だから全部の荷物を持っていつでも行けるように、電話を聞いて。

 でも、しばらく何してる人かわからなかった。赤井はわかるけど、下の名前はわかんないんですよ。聞くタイミングがないわけ。赤井しかわからない。知ってるていでやってましたけど、台本をある日見つけて、あ、役者さんなのかなっていうぐらいでした。

 それで他の方と喋ってる時に“以前結婚してた時に”って聞いて、あ、結婚してたことあるんだ、と。

 お父ちゃんとお母ちゃんと一緒に住みたかったんやけど、その時は一緒に住めなくて、みたいな話をしてたので、これ私が大阪行かなきゃと思って。

 そこですかね。私が一番人生でチェンジがあったのは。大阪のお義父さんとお義母さんの実家に行ったこと」

赤井「ピアノ持って」

佳子「ピアノしかなかった、荷物がね」

 結婚する前に、大阪の赤井さんの両親が住む家にピアノを持って押しかける。驚くべき行動力というほかない。この佳子さんのTHECHANGEが、赤井さんとの人生を創りあげるきっかけとなった。

■プロフィール
赤井英和(あかい・ひでかず)
1959年8月17日、大阪府大阪市西成区出身。浪速高校入学と同時に先輩に半ば強引にボクシング部に入部させられる。下働きの日々を経て、夏の国体予選にいきなり出場し、優勝。これを機に技術をつけたくて「朝は4時、5時から走って。高校の時がいちばん練習してた」という日々を送り、ボクシングの名門・近畿大学に進学。80年にプロ入りし、デビューから12戦連続といKOという偉業を達成。その攻めのスタイルから“浪速のロッキー”と呼ばれ、大阪中から絶大な人気を獲得。85年2月5日、大和田正春との試合で7ラウンドKO負け。急性硬膜下血腫、脳挫傷で意識不明の重体となり緊急手術。奇跡的に一命をとりとめるが、ボクシングからは引退。88年に半生を書いた『どついたるねん』を出版。89年、同書をもとにした阪本順治監督の映画『どつたるねん』に主演し、俳優としてデビュー。以降、映画、ドラマ、バラエティなどに出演多数。1993年に結婚した妻・佳子との間に一女二男。佳子が運営するツイッターアカウント「赤井の嫁」は、絶大な人気を誇り、投稿の内容をまとめた『赤井図鑑』(扶桑社)が2021年に出版。