現役最後の千秋楽の朝に見た『勝ち虫』
14日目は大関・正代戦。当たりの強い正代に真正面から攻めていく力は、今は持ち合わせていない。前夜は考え込むあまり、入眠剤の力を借りて、ほんの数時間だけ眠ったという白鵬の「作戦」は、立ち合い、仕切り線よりはるか後ろの俵の前まで下がって、正代の衝撃を軽減するというものだった。
「『もう、これしかない』と思っていました。10日目が終わった時、優勝こそが私にとっての生きる道だと悟って、最後の2日間は腹をくくって行きました」
千秋楽の朝のこと。
現役最後の朝稽古に向けて準備をしていた白鵬は、稽古場を飛ぶものを見つける。
「黒いトンボ(ハグロトンボ)が稽古場に迷い込んで来たんです。トンボは前にしか飛ばないから、『勝ち虫』と言われて、相撲界では縁起がいいものとされているんです。最後の相撲を前になんて運がいいのだろうと……」
現役横綱から親方へ、まさに人生の転機に表れたハグロトンボ。
こうして最後の土俵に臨んだ白鵬は、土俵に上がる際、土俵に額をつけた。
「土俵との別れを惜しむ、というよりも、感謝の気持ちでした。最後となると、穏やかな気持ちになるもので、この日は、(角聖・双葉山関も目指した)『木鶏』になった日でした。長い土俵人生の中で、初めて緊張しなかったんじゃないかな?」
東京から、妻、4人の子どもたちが駆けつけた前で、鮮やかに45回目の優勝を飾った白鵬は、この日、静かに土俵を去った。
「東京オリンピックまで現役を続ける」
とは、父との約束だった。
その約束を守った白鵬は、秋場所後、引退届けを提出。間垣親方として、後進の指導に当たることになった。
22年には、宮城野部屋を継承。宮城野部屋の師匠として弟子の育成、スカウトに忙しい日々を送っている。
2月12日には、14回目となる少年相撲大会「白鵬杯」が両国国技館でおこなわれる。日本のみならず、世界各国から選手が集まるこの大会は、「相撲を多くの子どもたちに広めたい」という白鵬の強い思いから始まったものだ。今では、幕内・阿武咲など、「白鵬杯」を経て、関取に昇進した力士も増えてきた。
「相撲を愛する人間の一人として、これからも世界中の人たちに、相撲の魅力を伝えて行きたい。相撲が縁となり、いろいろな輪が広がっていけばいいですね」
取材・文/武田葉月
■宮城野 翔(みやぎの・しょう)
本名:白鵬 翔(はくほう・しょう)1985年3月11日 モンゴル ウランバートル出身。第69代横綱。2010年初場所から63連勝を記録するなど輝かしい戦績を残す。2021年に現役引退。2019年に日本国籍を取得し、現在は年寄・宮城野。生涯戦歴 1187勝247敗253休。受賞歴 優勝45回/殊勲賞3回/敢闘賞1回/技能賞2回