初めての海外旅行はもの凄い体験の連続!

「サンフランシスコが生まれて初めての海外旅行でした。コッポラ監督は初期の段階から『地獄の黙示録』の音楽はシンセサイザー作曲家の冨田勲さんに依頼したいと考えていて、打合せのためにサンフランシスコに冨田さんを招いたのです。私もその通訳を仰せつかり、いわば“漁夫の利”式に初の海外旅行が実現したわけです」

 戸田さんの幼少期は戦争中、敵は〈鬼畜〉ということで、英語は一切禁止。接する機会すらなく、留学経験はおろか、海外旅行の経験もなかった。40歳を過ぎて初めての海外は生涯忘れられぬ貴重な体験の連続となった。

「コッポラ邸の豪華な地下室で、撮影済みの『地獄の黙示録』のシーンを観ながら、その画面に込めた想いや背景などを熱っぽく語るコッポラ監督。冨田さんも熱心に耳を傾け、私は長時間にわたって懸命に通訳をしました。

 その後、監督がロケ地も見て欲しいと言われて、冨田さんと私はフィリピンに飛ぶことになりました。マニラから監督が手配したヘリコプターでジャングルの奥地の撮影現場へ。いま思い出しても超・エキサイティングな経験でした。

 まず、字幕翻訳者が映画の撮影現場に足を踏み入れるなんていうことはまずないことだし、ましてや当時の私は半人前の素人同然。撮影の現場に立ち会っただけでもすごい経験なのに、それが映画史に伝説として名を刻む『地獄の黙示録』の現場なのですから、毎日、身をつねって夢でないことを確かめたくなるほどでした。

 しかし、冨田さんは長い時間を費やしたにもかかわらず、結局は契約上の問題がネックとなり、残念ながらこの作品への参加を断念せざるをえませんでした」

 製作自体が難航に難航を重ね、やっと1978年に完成した時、日本のジャーナリストへのお披露目ツアーが行なわれた。戸田さんも同行したが、その時点では当然、字幕も入っておらず、ジャーナリスト用に短い読み物=シノプシスにまとめる作業をしたという。

 撮影中に通訳をしながら監督の製作意図や細かい説明を聞いたり、ラッシュ・フィルムを観ていたことが功を奏し、シノプシスは好評だったそうだ。

長年の夢「字幕」の仕事がついに実現!

 その後、フィルムは日本に送られ、字幕をつける作業にとりかかる時点で、思ってもみなかった字幕翻訳の依頼を受ける。

「公開前からすでに話題沸騰の大作だけに、字幕を任されたこと自体が耳を疑うほどでしたし、責任感で全身に緊張が走りました。ずっと後になって知ったのですが、字幕の担当を決める段になって、コッポラ監督が“彼女は撮影現場でずっと私の話を聞いていたから、字幕をやらせてみてはどうか”と配給会社に言ってくださったそうです。コッポラ監督の鶴の一声が私の背中を押してくれたのです」

 こうして映画史に名を残す大作の字幕を任されることになった。字幕への道を志して実に20年が過ぎていた。

戸田奈津子(とだなつこ)
1936年生まれ。東京都出身。映画字幕翻訳者。津田塾大学卒業後、生命保険会社に就職するも1年ほどで退社。通訳や翻訳などのアルバイト生活を続けながら映画字幕翻訳者を目指した。『地獄の黙示録』(1980年)でフランシス・フォード・コッポラ監督がフィリピンロケの中継地点として日本に滞在した際にガイド兼通訳を任される。これを契機に字幕翻訳者としてデビュー。以後、数々の映画字幕を担当し、ハリウッドスターとの親交も厚い。2022年に通訳引退を発表。