浅草の舞台でコメディアンの修業を開始

 残るは芸能界。高校卒業後は、浅草の東洋劇場でコメディアンの修業を始めた。5年もした頃、念願のテレビに出ることができたんだよ。ところが、生放送で19回も連続してNGを出しちゃってさ。これでテレビはあきらめ、浅草の舞台に逆戻り。

 すると、先輩から声がかかった。「俺、今、熱海で仕事してるんだけど、そろそろ帰りたいんだ。俺の後釜、やってくんない?」

 もう何も考えず、喜んで熱海に行ったよ。半年間、住み込みで熱海のホテルのステージに出演した。ステージは夜だから、昼間は砂浜で海をボーッと見てたの。押し寄せる波の音も気持ちよくてさ。だんだん、やる気が出てきて、コントも考えた。

 そのコントを持って、東京のアパートに帰ったら、電話がかかってきた。相手は坂上二郎さん。コントの話をしたら、一緒にやりたいって言うんだよね。二郎さんは僕より7つ年上で、「最後の勝負をさせてくれ」とまで言う。こうして結成されたのがコント55号だった。

 コント55号はまず浅草の演芸場で受けて、次は日劇ミュージックホール、さらにテレビにも進出した。この頃はもう目の回るような忙しさで、 寝る間もなかった。なのに、映画にも10本以上出た。毎日、朝7時から9時まで松竹の大船撮影所に行って撮影し、それから東京のテレビ局に行くの。映画に主演するなんて幸せなことなのに、その幸せを味わうこともできなかった。しかも監督は『砂の器』のような名作を撮った野村芳太郎さん。試写室で野村監督に 「迷惑かけています」と謝ったら、 野村監督はこう言うわけ。

「欽ちゃんたちが頑張って稼いでくれるから、『砂の器』のような文芸作品も撮れるんです」

 さすが巨匠だよね。野村監督は人としての器が大きかった。

(つづく)

萩本欽一(はぎもと・きんいち)
1941年5月7日、東京都生まれ。高校卒業後、浅草東洋劇場の一座に加わり、芸能活動 を開始。66年に坂上二郎とコント55号を結成。その後人気番組を数々生み出し、「視聴率100%男」とよばれた。テレビ以外でも、クラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、初代監督に就任するなど幅広く活躍。現在ユーチューブ『欽ちゃん80歳の挑戦!』を配信中。