「いよいよ僕の命もおしまいなんだ」
〈 獄中の冴ゆる冬月我のもの 〉
こうした切実な思いを込めた句を数十句作りました。俳句を作ることは、自分の人生を振り返ることでもありました。よく思い出したのは父のことです。姉(作家・辺見じゅん)は“父はいつも書斎に座っていて、子どもたちには背中しか見せない遠い存在だった”と言っていましたが、確かに、その通りだったなと。子どもたちに溶けこもうとしない父の孤独感が、この年になってようやく分かりました。僕もそんな父に近づこうとはしませんでしたから」
俳句を初めて1か月もした頃、角川氏は何度も倒れた。すでに立ち上がることさえ困難になるほど、体力は落ちていたのである。しかし、保釈請求は却下され、恐怖とストレスと寒さで心は日ごとに蝕まれた。
「この頃になると、次に倒れたら、死ぬかもしれないと思いました。だから、拘置所の医務室で、“僕はいつここから出られるですか”と、つい訊いてしまったんです。
医者は吐き捨てるようにこう言いました。
“角川さんは、生きている間はここから出られません。生きて出られるかどうかは弁護士の腕次第ですよ”
僕は絶望と激しい怒りで全身が震えました。そして、なんとしてでも、ここから出なければダメだと思いました。
でも、3月になった頃、不思議な体験をしました。朝、マラが勃ったんです。いわゆる朝勃ちですよ。何かの本で、死ぬ1週間くらい前に、男はそうなるということを読んだのを思い出し、いよいよ僕の命もおしまいなんだと思いました。
そのとき作った俳句がこれです。
〈体力の尽きんとするも春の魔羅〉」
この日から約1か月後、5度目でようやく保釈請求が認められ、角川氏は死の淵から生還することができた。さらに1年後、角川氏は国に対し、「人質司法」が憲法違反であると訴訟を起こした。同時に、自らペンを執った手記『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』(リトルモア)を出版した。
(文責/米谷紳之介)
(第4回に続く)
角川歴彦(かどかわ つぐひこ)
1943年9月1日、東京都生まれ。66年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業後、父・角川源義の興した角川書店に入社。「ザテレビジョン」「東京ウォーカー」などの情報誌を創刊し、93年の社長就任後はゲームやインターネットの可能性にいち早く注目してメディアミックスを進め、KADOKAWA(2002年に会長兼CEO就任、13年に商号をKADOKAWAに変更)を三大出版社(講談社・集英社・小学館)に対抗する出版社に育て上げた。22年9月14日、東京五輪のスポンサー選定を巡る汚職事件で逮捕。翌23年4月27日に保釈が認められるまでの226日間、勾留され続けた。24年6月27日、日本の「人質司法」の非人道性や違法性を世に問うべく、国を提訴。同日、手記『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』(リトルモア)を出版した。同10月8日に、東京五輪の汚職事件の初公判がはじまった。