プロダクションに入ったものの、大きな役はこなかった
――そこから出発して、実際にプロになりました。
「私たちの頃の監督を志望する人たちは、いわゆる“ぴあ世代”というのかな、ぴあフィルムフェスティバル(下記PFF)に8ミリや16ミリの作品を応募して、そこからプロになっていく監督が多かったんです」
PFF(ぴあフィルムフェスティバル)とは「新しい才能の発見と育成」「映画の新しい環境づくり」をテーマに、1977年から現在も続く映画祭。自主映画のためのコンペティション「PFFアワード」で認められ、プロデビューしていった監督も多く、森田芳光、石井聰亙、黒沢清、矢口史靖、李相日、荻上直子、石井裕也らを輩出している。
「そういった自主映画にたくさん出て、自分もプロダクションに入りました。でも看護師Aとか学生Bとかそんな役ばかりで、大きな役はもらえませんでした。学生時代に一緒に作品を作っていた監督たちが、プロの監督になっていったわけですけど、そうなったとき、じゃあ自分を使ってくれるかと言えばそうじゃない。そんななかで、“自分はどんな風に女優になっていったらいいんだろう”と」

ーーはっきり見えていたはずの道が見えなくなりかけたのでしょうか。
「もともと女優になりたくて早稲田に入りました。そのあとも割ととんとん拍子で自主映画や舞台作品と出会って、たくさん出演しました。だけどそれはまたプロとは違う。あるとき、PFFの審査員をなさっていた大森一樹監督が、“自分の映画に出てみないか”と声をかけてくださって、在学中に劇場映画デビュー(『風の歌を聴け』)したんですけど、だからといって、すぐに仕事が増えるわけでもない。そのうち一緒にやっていた友人監督たちは、どんどん35ミリ劇場映画で監督デビューしていったわけです。」
――焦りますね。
「自主映画の時は主役だったのに、“女優になるには何をしたらいいんだっけ”と考え込む日々でした。調子よく大学に入って、調子よく自主映画に出て。年間すごい量の映画を観て、アルバイトもして、そんな風に一生懸命忙しくやってきたことが、その方向ではもう進まなくなってしまった。“どうしたらいいんだっけ”と」