81歳になった今、死が射程距離に入った
――誰でも年を重ねれば死が近づいてくるわけが、近づいてくることによって、死への考え方に変化はありませんか。
「70代までは、死というものが射程距離にありませんでした。だけど81歳になった今、初めて射程距離に入った感覚がありますね。それは無色無臭無味が近づいているということであり、至って平静です」
――射程距離に入ると避けたくなりませんか。
「死の射程距離というのは、向こうから撃ってくる場合と、こっちが撃つ場合もあるんだよ(笑)」
――こっちが撃つ、とはどういうことでしょう。
「昔インドで、80歳を過ぎた坊さんに出会ったことがある。彼は諸国行脚して、バラナシの8月8日の祭りの日に死に来たんだと言うんだね。僕はその死の瞬間を撮りたくて、ハゲタカのようにずっと彼に張り付いて見ていた。そして8月8日がやってきた。彼は本当に今日死ぬのだろうかとカメラを持って待っていたら、夕方6時の日が落ちたころ、仰向けになったんです。まだ呼吸しているのがわかる。するとある瞬間、両手で印を結び急に喉を開けた。彼は本当に死んでいったんですね。自分で死を撃ちにいったわけです。それを見て、人間は自分で死の瞬間を選ぶこともできるのかなと思った。その感覚を僕は持っています」
――勝手ながら、藤原さんは自ら撃ちに行きそうな気がします。
「いつか選択しなければいけないだろうね。ただ、思い出すのが第二次世界大戦の原爆投下です。よく知られているように、原子爆弾は当初、福岡の小倉に落とされる予定だった。ところが天候が悪く視界が悪かったので回避され、結果的に長崎に投下された。もし小倉に落とされていたら、門司港で生まれた自分は生後間も無く死んでいたのかもしれない。それ以降自分の犠牲になった人がいる、という感覚が子ども心に芽生えました。それは長崎で死んだ人たちだけではなく、たとえば東日本大震災、能登のように、大きな災害がある度に犠牲となった人たちにも、そう思う瞬間がある」
――それは、自分が生き残った「後ろめたさ」ですか。
「いえ、後ろめたさというよりも、慈しみが近いかな。「犠牲」という言葉が正しいかはわからないけれど、自分が生きているうえで、犠牲になっている人たちの存在というのが、意識のどこかにあります。いやそれは実際にそうでしょ。この地球上で不慮の大災害で死ぬ人がいる瞬間に自分は美味しい夕餉の食卓を囲んでいる。貧富の差も同じことですが、皆、誰かの不幸の上に成り立つ幸福を享受しているんじゃないですか」
取材・文/武田砂鉄
藤原新也(ふじわら・しんや)
1944年福岡県門司市(現 北九州市)門司港生まれ。東京藝術大学絵画科油画専攻に入学後、アジア各地を旅し1972年に処女作『印度放浪』を発表。以降、写真、文筆、絵画、書、音声と様々なメディアで表現をする。1976年日本写真協会新人賞、1977年第回木村伊兵衛写真賞、1981年第23回毎日芸術賞を受賞。『全東洋街道』、『東京漂流』、『メメント・モリ』、『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』、『日々の一滴』、『祈り』など著書多数。