故・水野晴郎氏に口説かれて初通訳!

 大学を卒業し、丸の内にある生命保険会社に就職した。初任給はいくらぐらいだったのだろうか?

「1万数千円でした。当時としてはこれが常識。でも会社が日比谷の映画街に近いので、自分がいただいたサラリーでロードショーを観られるのが嬉しかったです」

 しかし、字幕翻訳の夢を捨てられず1年半で退社。翻訳や通訳のアルバイトをするようになった。

「いまでいうフリーター。“翻訳の仕事ならなんでもいたします!”という感じでアルバイトの日々。通信社の原稿を書いたり、化粧品会社や広告代理店の資料を翻訳したり、なんでもやりました。映画会社への扉が開いたのは、大学卒業からほぼ10年。長いでしょ(笑)。英文シナリオの不完全な映画や、シナリオの到着が遅れている映画のヒヤリングを頼まれるようになり、洋画配給会社からもシノプシス(あらすじ)作りの仕事が来るようになったのです」

 アルバイトでユナイト映画のビジネスレターの翻訳仕事をしていた時、今は亡き映画評論家の水野晴郎さん(享年76)から突然「あなた、英語ができるんでしょ? 通訳してちょうだい」と頼まれ、初めて映画の仕事で通訳をすることに。「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」という名文句で有名な水野さんは、当時ユナイト映画の宣伝部長だった。

「書いて、読んで、基礎を学ぶことは中学2年生から始めましたが、留学経験はおろか、会話の経験もありませんでした。今のように英語があふれている時代ではなく、英会話を聞くチャンスといったら洋画を観るかラジオを聴くぐらい。でも中学、高校で基礎を身につけていたからこそ、後日、会話力が必要になった時に対応できたのだと思います。

 生の英語に触れたのは大学時代のアルバイトで来日バレエ団の小間使いをした程度で、その後は話すチャンスもなかったわけですから、私はビビって“まともに英語をしゃべった経験はありません”とお断りしました。でも、水野さんは強引(笑)。気がつけば、記者会見の席に座らされていました」

 それが、『アリスのレストラン』(1970年)のプロデューサー、ヒラード・エルキンスの来日記者会見だった。作品は60年代のフラワー・チルドレンの生態を音楽で綴った異色作で、話題も高尚で難しい。初めての通訳としては輪をかけて酷な状況だった。

「もちろん、無我夢中で終始しどろもどろ、ヘタだったです(笑)。冷や汗をかくやら、恥ずかしいやらで、2度と通訳の仕事は頼まれないだろうと思いました。ところが、その後ほかの映画会社からも通訳の仕事を依頼されたんです。

 当時はプロの通訳斡旋会社もないし、帰国子女もほとんどいなかったから、私にお声がかかったのでしょう。でも、あんなにヘタな英語でもなんとか務まったのは、やはり長年、映画を観続けてきたおかげだと思います。原題を聞いてすぐに日本語の題名に置き換えられること、監督や俳優のそれまでの仕事をある程度知っていることなど、英語力だけでなく、その分野の知識を持ってることが大事なのです」

 それ以来50年以上の長きに渡り、数々のセレブたちの通訳を務めることになる。夢だった「字幕翻訳」の仕事にたどり着くのは、それから数年後のことだった。

 昨年、惜しまれながら通訳を引退し、現在は字幕の仕事一本で現役を続けている。

戸田奈津子(とだなつこ)
1936年生まれ。東京都出身。映画字幕翻訳者。津田塾大学卒業後、生命保険会社に就職するも1年ほどで退社。通訳や翻訳などのアルバイト生活を続けながら映画字幕翻訳者を目指した。『地獄の黙示録』(1980年)でフランシス・フォード・コッポラ監督がフィリピンロケの中継地点として日本に滞在した際にガイド兼通訳を任される。これを契機に字幕翻訳者としてデビュー。以後、数々の映画字幕を担当し、ハリウッドスターとの親交も厚い。2022年に通訳引退を発表。