■壮絶な現場への覚悟「むしろ“仕事らしい”」
もともと富野監督は映画会社への就職を望んでいた。だが、当時は大手の映画会社が新入社員の採用を止めていた時代。たまたま1度きりの公募をしていた虫プロの面接を受け、それで就職が決まった。
富野監督は「こんな大変なことをさあ、どうする? いや……でも他に就職するところもなくてここに来たんだからここでやるしかない。そうやって覚悟を決めるまでの1か月2か月っていうのはやっぱり辛かった」と振り返る。
「でも、そんな中で虫プロが自分を採用してくれて、週1でアニメを作らなくちゃいけないという現場があれば、それはむしろ“仕事らしい”のよね。やることはひたすらあるんだから。
現にそのときは『鉄腕アトム』も、手塚先生の原作のストックがなくなっているという状況で、週ペースで新しくシナリオを作っていかなくちゃいけない、そして作画をしていかなくちゃいけない、モノクロだから簡単だろうとは言いながらも、色をつけて撮影していかなくちゃいけない。とにかく基本的に物量が必要なわけで、。そういう現場を見ていると、四の五の言っていられないんです。これでは否が応でも“変わる”でしょう」
このとき、怒涛のように味わった虫プロでの経験の中で、富野監督は確固たる「仕事論」を見出したという。
「よくみなさん、“希望の職業”に就けたらどうのこうの、なんておっしゃっている気がするんですが、“希望の職業”なんてあるわけがねえじゃねえか、って思う。むしろ与えられた職業があったら、そこでどう凌ぐかとか、どう対応するかっていうことを身につけることが必要。ぼくが実感したのは、そういうふうに強要されることによって仕事を覚えられるんだったら、それはこっちのものでしょってこと。
当時のアニメは電動紙芝居なんて呼ばれるぐらいのレベルのもので、こんなもので20年食べていけるのかなって心配になるヤバい世界だった。でも電動紙芝居でも“作れなかったらダメだろう”って思って、逆に電動紙芝居と呼ばれるレベルだからこそ、ぼくのように低いスキルしかなくても仕事がもらえるかもしれないと思った。だから高みなんて目指してなかった。
高みは目指してないんだけど、週ペースでアニメを作って月々のギャラをもらえるような仕事が手に入れられれば、ひょっとしたら10年、20年ぐらいは食っていけるかもしれないなっていうことを教えられたのが、虫プロダクションでの4年間でした」