1980年夏場所、大島部屋から初土俵を踏み、力士として活躍。1996年、30歳の時に新進党から衆議院総選挙に出馬し、比例近畿ブロックで当選。現在は前衆議院常任理事を務め多方面で活躍中の旭道山和泰。彼の「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】

旭道山和泰

 相撲界に入門した1980年は師匠の大島親方(元大関・旭国)が新たに大島部屋を創設した年で、3月の春場所に入門した新弟子は10人でした。

 5月の夏場所で入門した私は師匠の11番目の弟子ということになります。

 徳之島で過ごした中学時代、私はバレーボール部に所属していて、高校への推薦入学の話も進んでいました。ところが、中学卒業が迫ってきた頃、母親から力士になることを勧められたんです。

 私は相撲を知らなくて、身長はそこそこあったものの(178センチ)、体重は58キロとヒョロヒョロの体形。

 でも、母親はこう言ったんです。「男だったら 3年間 人生賭けてきなさい!」

 この言葉に納得して、私は東京の大島部屋に向かったのですが、力士になるには当時の規定で、体重が70キロ以上必要でした。そのため、新弟子検査の当日は、体重を増やすために水を1升飲み、餅やおじやを食べて、なんとか検査をクリアしたものの、日々の力士生活は想像以上に過酷でした。

 朝は3時に起床。3時半には土俵に降りて、そこから12時まで稽古。その後、チャンコと雑用、昼寝を終えた16時からまた稽古。この繰り返しです。

 現役引退から間もない師匠はまだ30代と若く、新興部屋でしたから、「1日でも早く関取を育てたい」という気持ちが強かったのでしょう。新弟子の私たちにとっては苦行でしたが、これが当然だと思っていました。振り返ってみると、「ザ・昭和」でしたね(笑)。

 大相撲の世界は三段目になると雪駄がはけて、幕下に上がれば博多帯が締められて、外套が着られるなど、階級ごとで決まりごとがあります。だから、「早く出世したい」という気持ちが強くなるわけです。