ゆりかごの時代と喪失した時代、その中間に怒りがある

――藤原さんが『東京漂流』などで、家族の欠損・欠落を問うたり撮ったりしてきたのは、自身の頭に、「ゆりかごの時代」の光景が残っているからですか。

「それはあるでしょうね。蜜月のようなゆりかごの時代と、すべてを喪失した時代があって、その中間に怒りがあるわけです。

 実家が破産した原因はいろいろあるけど、ひとつは当時、関門トンネルができただけではなく、外国からの航路も変わったんですね。それから「日本列島改造計画」で道路も拡張していって、門司港の周辺が激変していった。それまでは門司港で旅館を構えていると、金だけではなく、物資がたくさん手に入ったんです。戦後間もなくは物資がない時代で、引き揚げてきた兵隊たちは金ではなく、米や酒を宿金代わりに置いていった。だから白い飯を食べるのが難しい時代でも、自分の家にはたくさんの米があったんです。僕が外で白米のおにぎりを食べていたら、「どうして白米を食ってるのか?」と他の子どもたちから取り囲まれたこともあります。

 その後、実家が破産して大分県の鉄輪に夜逃げするわけですが、住む場所が強制的に変わるというのは実に心もとないんです。言葉も違う。大分県では「疲れた、面倒だ」を「よだきい」と言うんだけど、その意味がわからなかった。言葉が違うと、たちまち居場所が失われた感覚になります。

 だけどそんな貧しい中でも、おふくろは家に花を飾っていたんですね。実家が旅館をやっていたころは玄関にいつも花を飾っていたんだけど、その習慣は極貧になっても続いた。どこかから花を摘んできて、家に花だけは絶やさなかった。その時、僕は初めて絵を描いたんです。無縁な人たちに囲まれ、孤独感の中で、そこに飾られていた水仙の花を見て描いたのが、僕が絵を描いた最初の経験だった」 

――藤原さんは今に至るまでいくつも花の絵を描き、花の写真を撮っていますが、それと関係はありますか。

「あるのかもしれません。花は自分の人生の随所に出てくる存在ですね。たとえば夜逃げした先の鉄輪温泉に辿りついたのは夜で、真っ暗でした。温泉街なので、あちこちでシューシューと音を立てて蒸気が上がっていた。でも、暗くて周囲がよく見えない。一体、ここはどこだろうと不安になった。鉄輪に着いた日は父親が借りた六畳一間に家族全員で寝たんだけど、異様な音が気になって朝まで眠れなかった。

 だけど翌朝、窓を開けてみると、窓の外は桃の木畑で満開の桃の花が一面に広がっていたんです。心を奪われました。心を奪われるということは文字通りその時の心を忘れるんですね。不安だった自分の気持ちが軽くなった一瞬でした」

 「花」がテーマだという藤原さんの次の個展は来年開催予定だ。「これまで描いたり撮ったりした花とは比べ物にならないほどエネルギーに満ちている」と話す。81歳を迎え、チェンジしてきた「死への考え方」とはーー。

(つづく)

藤原新也(ふじわら・しんや)
​1944年福岡県門司市(現 北九州市)門司港生まれ。東京藝術大学絵画科油画専攻に入学後、アジア各地を旅し1972年に処女作『印度放浪』を発表。以降、写真、文筆、絵画、書、音声と様々なメディアで表現をする。1976年日本写真協会新人賞、1977年第回木村伊兵衛写真賞、1981年第23回毎日芸術賞を受賞。『全東洋街道』、『東京漂流』、『メメント・モリ』、『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』、『日々の一滴』、『祈り』など著書多数。